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砂の湖

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日が昇り霧が晴れた頃、いつものように私は湖へ釣りをしに出掛けた。数年前から住んでいる小屋から半里ほど離れた場所にある湖で魚を釣り、それらを日々の糧としている。
 桟橋に腰を下ろし釣り糸を垂らしていると、背後で桟橋の軋む音がした。振り返るとそこには大きなバックパックを背負った、くわえ煙草の旅人らしき男が立っていた。辺りをきょろきょろと見回していた男は私の視線に気づいたのか、やあやあと手を振りながらこちらへ近づいてきた。

 「いやあ、道に迷ってしまいましてね。それにしても大きな湖だなあ、こんな山奥にこれ程の湖があるなんて知らなかったよ。地図にこんな場所、載ってたかなあ」

 男は再び湖や周囲の森を珍しそうに眺めている。確かに、鬱蒼とした深い森に囲まれたここら一体は、地図にも詳しくは載っていない。抜け道を知らなければ容易には近付けない、ちょっとした陸の孤島である。だからこそこの思いがけない闖入者に私は内心ひどく驚き、どう応対してよいか考えあぐねてしまった。しかし男はお構いなしに、煙草の煙を吐くと私に質問を投げかける。

 「あなたはこの辺に住んでいるのですか?」
 「え、ええまあ……、ここから少し離れたところに、塒にしている小屋があります」
 「へえ。しかしよくこんな山奥に住んでいられますねえ。何も無くて退屈でしょうに」

 余計なお世話だ、とは思ったが、初対面の人間に喧嘩を売るような真似はしたくなかったので、私はその言葉を適当に聞き流すことにした。

 「静かで良い処ですよ。贅沢を言わなければ食うに困るわけでもなく、のんびりと生活できますから」

 ふうん、とさして興味も無さそうな生返事をしながら、男は桟橋に膝をつくと片手で湖水を掬い、それをしげしげと見つめた。

 「随分澄んだ水ですね。こんな綺麗な水なのに、魚なんか棲んでいるのですか」
 「結構釣れますよ。ここら辺の浅い場所まで魚がいるくらいだから――ほら」

 釣り糸のすぐ近くを、小型の淡水鱸が悠々と泳いでいる。

 「稀にボートを使うこともあるんですよ。向こうのわりと深い場所では鱒も釣れるんです」
 「わりと大きな魚がいるんですねえ」

 わりとどうでもよさそうな口調の男に対して、これ以上振る話題を持ち合わせていない私は、心の中では彼になるべく早く立ち去ってほしいと願っていた。男は短くなった煙草を口から離し、桟橋にぽとりと落とすとそれを靴で踏みにじり、あろうことかそのまま湖へと蹴り捨てた。

 「あっ、何て事を」

 驚いた。なんと行儀の悪い男だろうか、そのとんでもない行動に腹が立ち、私は思わず大人げなく語気を荒げて男に詰め寄った。

 「煙草なんか捨てて……湖が汚れてしまう。もし間違って魚が食べてしまったらどうするんだ!」

 私の言葉に鼻白んだ様子の男が、眉を顰め不貞腐れたように呟く。

 「別にたいした事ないじゃないか、たかが煙草の一本くらい」

 そういう問題ではない。私は慌てて吸殻を掬おうとしたが、どういうわけか静かな水面には吸殻どころか灰すら浮いていなかった。しかし、私はたった今この目で男が吸殻を湖に蹴り捨てた瞬間を見たばかりで、どこか遠くへ流されてしまったとは考えにくい。だが、澄みきった美しい湖は微かに水面を揺らしているだけだった。底の砂にもそれらしき塵が沈んでいる様子はない。

 「馬鹿馬鹿しい。俺はもう行くよ」

 呆然としている私を尻目に、男が立ち去ろうとする。相当気分を害したのか、足音を大きく鳴らして桟橋の端を歩く。
 その時、「うわあっ」というやや間の抜けた叫びとともに、橋板の壊れる音がしたかと思うと、派手な水音をたてて男が湖に落ちてしまっていた。あまりに突然の出来事に、私は先程までの怒りも忘れ呆気にとられてしまった。まあこの辺りは子供でも足がつく程の深さしかないから、すぐに自ら上がってくるだろうと思っていた。しかし、上がってくるどころか少し経つと水音はぴたりと止んでしまった。
 何があったのだろうか。運悪く湖底に岩でもあって、それに頭でもぶつけたのではないだろうかと思い、私は男が落ちた場所へと近づいた。男に踏み抜かれた橋板の割れ目から湖を覗き込むと、そこには湖底にほぼ半身を沈め、砂に埋もれながら苦しげに藻掻く男の姿があったが、私が手を伸ばす前にそのまま湖底の砂に飲み込まれ、それっきり、見えなくなった。

 見なかったことにして、私は釣りを続けるべく竿を置いた場所に戻った。
作品名:砂の湖 作家名:倉田遥