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生きていれば

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『生きていれば』


「危ない」という一言で、マキは我に返った。
海に面する断崖絶壁の高台で、柵から身を乗り出すように眺めていたのだ。その一言が無かったなら、何かに吸い込まれるように落ちていった。落ちれば、確実に死んでいた。昔からの自殺の名所であった。振り返ると、中年の男が微笑んでいた。周りには誰もいない。ただ空を舞う海鳥と潮騒だけがあたりの静けさを破っていた。
「いや、ごめんなさい。あなたを見ていたら、つい声をかけてしまった。そんなに身を乗り出したらと、落ちてしまうと思ったから」
 マキは長い髪を抑えながら、声の主を見た。屈強な男がまるで少年のようにおどおどしている姿がおかしくなって、マキは笑ってしまった。

マキが二十になったとき、音楽家と称する青年に恋した。身も心も捧げた。六年の間、いろんなことがあった。夢のような甘い日々は最初の一年程度で、それ以降は地獄のような日々だった。いっこうに芽が出ない彼は、マキに八つ当たりをしたのである。罵声を浴びせたり、暴力をふるったりしたのである。それでもいつかは売れると確信し、彼を必死に支えた。いつか、売れたなら、再び本来の優しさが蘇るだろうと勝手に思いこんでいた。「あんなクズみたいな男と一緒にいるなら、この家の敷居をまたぐな」と父親に勘当されても、マキは彼についていった。しかし、彼が別の女を連れてきたとき、彼という人間が分かった。
「お前みたいなブス女は飽きた。こっちに乗り換える。お前は目障りだから消えろ」と罵られたのである。
一緒にいた女も「確かに不細工ね。生きている価値がないかも」と理不尽な冷笑をした。マキが悔しくて何か言い出す前に二人は消えてしまった。まるで、いきなり殴られたような悔しさが残った。悔しさは自己嫌悪に変わった。自己嫌悪から、やがて生きていても価値のない人間だと思うようになった。

生きる価値がないなら、死のう。そう決意し、死ぬ場所を求めて、この寂れた海辺の町にやってきたのである。たまたまインターネットで見つけた自殺の名所がここだったのである。
「今日は特に海がきれいだ」と男は言った。
突然、強い風が吹いてきた。彼女が手にした白い帽子が飛ばされた。男は夢中で追いかけて拾った。白い帽子を差し出すと、マキは小声で「ありがとう」と言った。
「生きていれば、何か良いことあるよ」と男は微笑んだ。
マキは優しい人だと思った。恋するなら、こういった男にした方が良かったと思った。また、こうも思った。自殺しようとしていたことを気づいて、“危ない” と声をかけてくれた、それが本当の優しさだと。
マキは男の顔を見ているうちに涙がこぼれてきた。
「私にも、良いことがありますか?」
 男は振り向いた。「誰にもあるさ」と微笑んだ。
 その笑顔でほっとした。ついさっき知り合ったばかりなのに、信用できるような気分になったのである。

実をいうと、男も自殺するためにこの自殺の名所に来たことのである。彼は五年前に妻と子を一瞬の事故で失った。妻と子と過ごした幸せな時が不合理に切り取られてしまった。やるせない憤怒を抱き、さらに、これから何を頼りに生きていけばいいのか分からなり、自暴自棄の日々を送っていた。そんな、ある日のこと、妻の故郷にも近い、この自殺の名所で、自殺しようと思ったのである。同じように海に飛び込もうとしていたとき、老婆に声をかけられて死ぬのを思いとどまった。
「死ぬのは早いだろ」と。
「どうして、死ぬと分かったんですか」
「その目を見て分かった。まるで地獄の底をのぞくような目をしていた。焦らなくともいつかは死ぬから」
老婆の笑う姿を見て、彼は自殺を思いとどまったのだ。

「本当に良いことはありますか?」とマキは泣いた。
「俺も実をいうと、前に自殺しようとしてここに来た。だから分かるんだ。自殺しようとする人間の顔や行動が。ここの崖の下は死につながる井戸だ。ずっと見ていたら、落ちて行きたくなる。それよりも、空を見た方がいい。青い空を鳥たちが楽しく飛んでいる。別に根拠があるわけじゃないが、神様が見ていて、平等に幸せを分け与えていると信じているよ。だから生きていれば、きっといいことはある」と男は微笑んだ。
マキは泣いた。ずいぶんと長い間、良いことが無かったが、今日、ほんの少し、いいことに出会ったような気がした。
作品名:生きていれば 作家名:楡井英夫