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我的愛人  ~顕㺭和婉容~

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第一章



 辛亥革命によって紫禁城を追われた清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀とその皇后婉容(ワンロン)が日本の保護の下、日本公使館を経て天津の日本租界にある「張園」からさらに「静園」へと移り住むこととなったのは1929年。
 さらにその二年後の1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖において、関東軍が南満洲鉄道の線路を中国側の仕業として爆破した事件に端を発した満洲事変が勃発。これが長きに渡る日中戦争の幕開けであった。以後関東軍は中国東北部「満洲」の制圧と侵略を推し進めてゆくが、国際世論の批判を避けるため、満洲全土の領土化ではなく、日本の保護下における独立政権──いわゆる傀儡政権の樹立へと方向転換することとなった。

 関東軍奉天特務機関長・土肥原賢二大佐は、「静園」にて軟禁生活を送っていた愛新覚羅溥儀に日本軍への協力を要請。溥儀は満洲民族の国家である清王朝の復興を条件に、新国家の元首となることに同意したのだった。
 11月10日、溥儀は天津を脱出し、その後営口を経て旅順へと移り、関東軍の保護の下、約束の地である満洲で着々と機会を窺っていた。

 残された婉容は「静園」で落ち着かない日々を過ごしていた。名ばかりの夫たる溥儀が何処に脱出したのか? 自分に対し箝口令が敷かれているのだろう、周囲の者に訊いても知らぬ存ぜぬを繰り返すばかり。孤独はさらに深まり、陰謀と策略の影に怯えながら、身動きが取れずに彼女はただひたすら待つことしかできなかった。不安で押し潰されそうな、それでいて無限に続くかと思われる単調な生活は苦痛以外の何物でもない。日本領事館からも国民党からも秘かに監視を受けている以上、自由を望むなどもってのほか。

 何を「待って」いればいいのか? 何時まで「待って」いればいいのか? 問うても帰ってこない答えを虚しく待ち続けて、彼女は無為に日々を送らざるを得なかった。
 しかしその籠の鳥の婉容の生活に突然終止符が打たれたのは12月初旬のとある日の夕刻であった。日本の将校が面会に来ていると告げられて、怪訝な表情を浮かべて応接間へ下りて行くと、礼を正して直立不動のまま彼女の出現を待つ一人の人物がそこにいた。

 上背のある均整のとれた体躯に軍服が良く似合う。俯き加減の深く被った軍帽から覗く白い顎、引き締まった頬。それらが匂い立つような若さを感じさせる。そしてその涼やかな唇から零れる流暢な北京官話の低い声に、婉容は思わずうっとりと聞き惚れた。
「慕鴻(ムーホン)皇后陛下にはご機嫌麗しく存じます。関東軍の命により、貴方様を宣統帝の許へお連れすべく本日参上致しました」
 将校はゆっくりと顔を上げると双眸を真っ直ぐ婉容に据える。

 切れ長の眼光鋭いそれはきつく婉容の視線を捕え離さない。対する婉容も、その煌めきを潜ませた大きな黒瞳で臆することなくそれをしかと受けとめる。二人のぶつかり合う視線は虚空で火花が散ったように閃き、もつれ、そして引き寄せ合うように絡み合う。そしてその固く絡まった視線の結び目をなかなか解くことが出来ずに、互いに見つめ合ったまま時が流れた。
「金璧輝、命を賭けて皇后陛下を護衛致します」
「中国人なのね」
 驚く婉容に、璧輝は静かに頷いた。
「清朝復辟(ふくへき)という大義の為に今は関東軍の下で活動しております。本日皇后陛下をお迎えに上がったのも、すべてはその為」
 復辟とは退位した君主が再び位に就くことである。清朝復辟とはすなわち清朝の再興との意だ。
 満洲事変以降から、婉容の身辺でうっすらとかかった靄のように囁かれてきたこの清朝復辟という言葉。ここ「静園」にせわしなく出入りするあまたの日本の将校。それらが溥儀が脱出したことと何かしら関係があろうことは、婉容もいくらかは察知していた。けれどその言葉を彼女が具体的に現実として体感したのは、この時が初めてであった。

「そんなまた突然に……どうしても今日出立しなければいけないのかしら?」
「そうです。事態は急を要しております。そして宣統帝も皇后陛下の一刻も早い御到着を望んでおられます」
「一体これから何が起ころうとしているの?」
「それはまだ申し上げられません」
 聞き飽きた言葉に苛立ちがこみ上げてくる。
「では、貴方が国民党の密偵ではないという証拠は? 皇上の名をかたって私を拉致するという可能性だってあり得るはずよ」
 婉容の大きな瞳が探るように相手を睨む。
「全くもって仰せの通りでございます」
 璧輝は彼女の予想外の返答に少なからず面食らった様子で暫く押し黙ったままでいた。するとおもむろに軍服の懐から不気味に黒光りする小型の回転式拳銃を差し出した。

「では、もし皇后陛下が私の行動に少しでも不審をお感じになったのなら容赦なくそれをお使い下さい」
 今度は婉容が絶句する番であった。
 受けとめる両手が小刻みに震えている。小型ながらずっしりと重い、初めて触れる拳銃に婉容は畏怖の念を抱いた。
「使い方が分からないわ」
「簡単です。引き金に指を掛けて……」
 婉容は恐る恐る拳銃を握りしめ、人さし指を引き金に掛けた。
「そのまま狙いを定めて……」
 そう言って璧輝は拳銃の銃口を掴んで、自分の左胸にぐっと押し当てた。
「そして引き金を引いて下さい。ダブルアクションなので操作は容易ですが、力一杯引き金を引かないと弾が発射されないのでご承知おき下さい」
「わかったわ」
 婉容は力が抜けたようにだらりと拳銃を持つ手を下ろした。
「どうかご安心を。私は皇后陛下を裏切るような事は決していたしません」
「それはまだわからないことよ。貴方は私の問いに答えてくれないばかりか、初対面の……日本人なのか、本当に中国人なのか分からない、見知らぬ人物を到底信じるわけにはいかないわ。そうでしょう?」
「ごもっともであります。けれど今から私の命は皇后陛下の掌中にありますゆえ、どうか早くお支度を」
「では何処へ行くのかだけでも教えて頂きたいわ」
 璧輝はほんの数秒躊躇った後に言葉を繋いだ。
「私は大連までお供させて頂きます」
「大連? 満洲の地へ?」
 璧輝は頷いた。