小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

針に貫かれし蝶

INDEX|1ページ/1ページ|

 
『針に貫かれし蝶』

身長が百五十九センチのサヨコは、色白ではっと息を飲むほど美しい。いつも長い黒髪を後ろに束ねている。大きな瞳は宝石のように美しく、口元は小さい。たいていの男なら、彼女に微笑まれたら、思わず胸をときめかさずにはいられないだろう。好きな色は水色。趣味は音楽と詩。特に原阿佐緒(あさお)という作家をお気に入りだった。
美貌であった原阿佐緒は愛に生きたが、そんな彼女の歌の中でも特に『生きながら針に貫かれし蝶のごと、悶えつつなほ飛ばむとぞする』というのが好きだった。

サヨコは愛人の木島が経営する歯科医院で十年事務をしていた。医院では、あくまでも医者と事務員の関係の二人。誰も深い関係にあるとは知らない。内縁関係は腐れ縁みたいな状態であった。互いに結婚という制度が嫌いで入籍していない。また歳をとってからでも遅くないという考えも一致し内縁関係を続けている。
一見、自由に生きているように見えるが、生活の関わるあらゆることは木島が決めるためたため、まるで籠の中で生きているような閉塞感を彼女は感じていた。

いつの頃から、サエコはほんの一時でいいから、木島という籠から出て甘い恋をしたいと夢見るようになった。籠の中から逃げ出せそうと思えば、逃げ出すことはできた。たとえば、老いた両親を頼って実家に帰るのも一つの手だった。けれど、木島の庇護から抜け出して生き抜く自信がなかった。彼女は実に現実的な人間で、阿佐緒のように後先も考えず行動するような女とは違っていたのである。だからといって、木島の籠の中でじっとしているわけにはいかなった。息がつまりで、それに何よりも一方的で暴力的なセックスが嫌になった。優しい愛が欲しかった。まだ三十五の女盛りだった。

八月の初めである。サエコは夢を叶えてくれそうな男、南高雄と出会った。南は優しかった。美男子でもなかったが、日焼けが似合っていた。文学が好きで、原阿佐緒も知っていた。それだけで何か身近な存在のように思った。
 出会って一週間後の満月の夜のこと。酔った勢いで、戯れにキスをした。それが始まりだった。そのままベッドインするのだと思った。けれど、南は思いのほか節度があった。それが彼女を少しがっかりさせたが、だからといって、その夜、抱かれたら、きっと木島を裏切ったという罪悪感で直ぐに離れてしまっただろう。

一歩踏み出せなかった夜から一週間が過ぎた。
 南は忘れてしまったのだろうか? やはりキスは戯れに過ぎなかったのか? そんな不安に駆られていたところ、突然、夕方に南からメールが届いた。読もうかどうか戸惑った。恋を囁かれたらどうしょうかとか、いろんなことを考え、メールを読むことができなかった。町が死んだように眠りに落ちた頃、ようやく読む決心ができた。だが、『君に興味を持っている』という簡単な内容で、サヨコはがっかりした。興味を持っているとはどういうことだろう。気を取り直して返信のメールを書いた。
『退屈ということを感じたことがありますか? ずっと退屈な日々を送っていました。いまでは退屈にも慣れています。夜は特に退屈します。友達と旅行することはありません。旅行には時間をあわせるのも大変だし、それに一緒にいると隔たりを感じるからです。今は、時折、実家に帰り、老いた両親と出来るだけ過ごすようにしています。私は遅くに生まれた娘だったために両親は高齢です。だから就寝も早いです。閑散とした和室に一人、古い机でメールを書いています。これから入浴を済ませて、読書して眠ります。今読んでいる本はクリスティ。不思議と心が和みます。読書の時間はありますか? あなたがどんなものを読まれるのか興味を持っています。毎月購読している雑誌などはありますか? 私は女性雑誌を毎月買っています。ファッションやメイクなどの情報源として利用しています。三十になってもお洒落心を失いたくないものです』
送った後、あらためて読み返した。あまりにもありふれた内容だったので後悔した。

南から返信が来なかった。やはりつまらぬメールで呆れてしまったのか。何度も悔やんでみたものの、どうしょうもなかった。

八月も終りに近づいた。また木島がやってくると思うと、憂鬱な気分になった。木島は月末になると、泊りに来て、彼女を抱くのである。木島はそれを義務と考えていた。当然、愛されているとも思っていた。だが、彼女は木島の一方的なセックスに飽きているばかりか恐れていた。当然、そこに快楽も見出せなかった。激しすぎたりすると、次の日に体調さえ壊した。いつから、そんな習慣になったのか、彼女もよく覚えていなかった。ただ意志とは別に何度も何度も求められるうちに、自分の存在が遊具のように感じられて放心状態になった。
昔から木島にはサドの傾向があった。特に最近、絶頂時に暴力をふるった。初めて殴られた時、サヨコは驚いた。が、軽く頬を打つ程度ですぐに終わると、優しく介抱してくれたり、謝ってきたりしたので許した。しかし、今年になってから拳で一度顔を殴られて顎にあざが出来た。さすが、顔を殴るのは、まずいと思ったのか、それが最初で最後だったが、顔の代わりに身体のあちこちを叩いた。今では、必ず始める前に「暴力を振るわないで」と頼み込む。そのときは優しく約束してくれするが、絶頂になって興奮すると抑えきれなくなると約束したことなど忘れたように暴力を振るった。終わった後、また彼は優しくなり、まるで子供みたいな顔をして謝る。その夜もそうだった。だが、もう限界だと感じた。
木島が帰るとき、彼女は「もう来ないで」と泣きながら訴えた。
木島は答えなかった。
「一人でいさせてよ」と続けて言った。
「一人になってどうする? 俺の面倒なしに生きていけるのか?」と笑った。
言い返すことができなかった。サヨコは両親が高齢のときの子供だった。母は昔からリウマチの気があって、今でも時々入院している。そういった費用も木島が面倒みてくれているのである。
 木島が帰った後、胸を見た。乱暴に握られた胸には痣ができた! まるで奴隷の焼き印のようだ。ずっと残るかもしれない。……もう逃げたい。生きながら針に貫かれし蝶であったとしても、逃げられるなら……。ひょっとしたら、南が逃がしてくれるかもしれない、そんな甘い期待を抱いた。というよりも、抱かずにはいられなかったのである。

それから数日後のことである。南からメールが来た。そのメールには『会いたい』と書いてあった。彼女はどう書こうか迷った。思いあぐねているうちに時計の針は午後一時を回ってしまった。
覚悟を決め『ひとときの愛を夢見ています。行動距離範囲に制限はありません。もう籠から抜け出したいの。どうせなら、遠くへ連れて行って』と書いた。空を舞う蝶のような気持ちになった。……いつしか眠りについた。
ふと誰かが呼ぶ声で、彼女は目覚めた。
その声の主の顔を見た時、彼女は思わず気絶しそうになった。木島が薄気味悪い笑みを浮かべてパソコンを見ていたからである。
「俺から離れてどこに行きたい?」
その恐ろしい形相に、彼女は思わず首を振った。


作品名:針に貫かれし蝶 作家名:楡井英夫