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紺碧塔物語

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第六章/森の民、不条理の彼方


■ □ ■ □ ■

 張り出した枝葉が複雑に絡み合い、森の中に一本の通路を形作る。
 空気は清く、暗い。仄かな冷気を孕んだ風が吹き抜け、さわさわと質量の軽い音楽を奏でる。
 星々が時折瞬く他に明かりのない夜空は、ぶ厚い雲に覆われていた。微かに顔を覗かせる月も、その灯りは森の木々に阻まれている。梟の鳴き声が響き渡り、木陰に潜む小さな獣を脅かした。
 半月を描く木々の天蓋は途切れることなく、森の中心部まで続いている。獣道でなく、かといって好きこのんで人が赴くような場所でもなく、何度かの調査の結果導き出された結論は『驚異的な自然の造形美』というありふれたものだった。
 東西南北に伸びた樹木の通路を擁する、大陸でも最大級の広さを誇る森──瓦解密林ヴァスカフトーネと呼ばれる場所に足を踏み入れ、テンポ・L・ランドは白く凍える息を吐き出した。森に入ってから二日目、延々歩き通した足は鈍い痛みを訴え始めている。 運動のせいで熱感だけはこもっているものの、時折吹き付ける寒風には冷水を浴びたような気分にさせられた。
 汗で貼りつく衣服の重さに眉根を寄せ、長々と横たわる巨木の幹に背中を預ける。
 頭の後ろでポニーテイルにまとめた白の髪が揺れる。長時間歩いても疲れにくいという触れ込みの靴は、今のところその機能を完璧に果たしているとは言い難い──あるいはこの靴のおかげで、かろうじてまだ歩き続けるだけの気力が残されているのかもしれないが。
 足下の小さな水溜まりには、もう何年も見慣れた自分の姿が映っていた。
 大陸南東部の出身者に多い、褐色の肌色。吊り目がちの双眸は赤く、猫のように挙動が落ち着かない。二十歳にも満たないような、幼さを色濃く残した顔立ちをしている──事実まだ二十歳にも満たないのだから、ただの若造でしかない。
 ──あと五年だけ若造でいられる権利よね。
 権利と思うしかない。独身中年女の教師から、嫌がらせじみた任務を回されたときなどは特に。
 上背は低いが、四肢は長い。華奢というよりはしなやかな体躯を、赤いジャケットと黒のパンツで覆っている。ハイキング用品という触れ込みで購入したもので、確かに防寒着としての性能は十分だった。婦人服としての可愛らしさは微塵も感じられないが、そんなことを気にかけられるような身分でもない。
 ──身分、ねえ。
 自分の思いつきに苦笑する。
 およそこの大陸において、全人民は共通の身分を保障されている。
 いわく人間種族は大陸憲章の名の下に平等であり、労働と公共への利益、未成年者への教育機会を設ける義務を負い、すべからく選挙行為を行い人民の代表たる大陸議員を選出し、最低限度の社会的生活を送り、いかなる教育と信仰においても選択する権利を持つ──云々。
 法律に詳しいわけではないが、少なくとも人間種族であり市民登録をしている者ならば誰でも、暖かい家の中でライスとスープ、簡単な魚料理に付け合わせのサラダを食べる権利があるということだ。食後にコーヒーを飲み、流行りの恋愛小説を読み、気が向けばシアターで芝居を見ることだって許される。最低限度の社会的生活というのは、つまりそういうことだろう。
 無能なヒス教師の嫌がらせで辺境に左遷され、七大秘境などと呼ばれるような場所で野営しなければならないというのは、人間種族に与えられた当然の権利を行使できていないということになる。
 まして昼となく夜となく有毒性のガスを放出する植物が密生し、劣悪な環境に適応して進化した猛獣が闊歩するような秘境の最深部に踏み込むことを命令されたとなれば、これはもうあの女教師と学園を提訴しても良いのではないだろうかという気にさえなった。
 テンポの身分。
 大陸西海岸沿いでは最大級の規模を誇る、自治都市ニューロゲートに母体を持つ学校法人──アイガンバン騎士養成学園。
 校長の家名がそのまま学校名になっていることからもわかるように、典型的な一族経営の法人だ。騎士養成学校は大陸に幾つもあるが、特に辺境部での活動実績が多いことで知られている。何人かの卒業生を王都騎士団に輩出し、一定の評価を与えられた学校だった。
 テンポはその学校の生徒である。
 イド・カンタトゥム教室の学級委員であり、齢十五という若さで近接武技教員(ナイトフェンサー)の資格を取得した。
 学級委員と言えば聞こえはいいが、生徒間に明確な上下関係があるわけではなく、誰もやりたがらない役職を押しつけられただけに過ぎない。
 学園長の従妹だか何だかいう中年女の教育主任に「生意気そうな顔付きが気に入らない」との理由から嫌われ、ことあるごとに嫌がらせじみた説教を受け続けてきた。
「……まあ、あの行き遅れの顔を見ないで済むのはいいけど」
 朽ちて倒れた大木に背を預け、張り出した枝葉の隙間から夜空を見上げる。
 吐息は白く立ち上り、それと意識した瞬間には風に紛れてしまった。懐中時計で時刻を確認する──学校で暮らしていた頃なら、そろそろ夕食にしようかと級友に話を持ちかけているような時間だ。
 ──夕食どころか、非常食だって勿体なくて食べられないね。この状況。
 嫌がらせの挙げ句辺境に飛ばされ、今日も無事生き延びることができましたと神様に感謝するような身分を、テンポが希望したわけでは勿論ない。だが現実として、彼女は今秘境の最深部で夜空を見上げていた。
 深く考えると、怒りよりも落胆だけが湧き出てくる。加齢臭漂うヒス女に素行不良と罵られ、正当な報復として横隔膜に貫手を突き込んでやっただけなのに、何故こんな目に遭わなければいけないのか?
 何もかも思い通りにならない現実から目を逸らし、地平線の果てまで続くような樹木の通路を眺める。
 木陰の隙間を縫うように、時折小さな光が走る。獣の眼光か、あるいは珍しい虫か何かが発光しているのかもしれない。どちらだったにせよ、わざわざ確かめに行くだけの気力もなかった。そもそも獣の眼光だったとしたら、確認しに行ったが最後、自分が餌になる可能性すらある。
「無理はしない──っ、と」
 独りごち、何とはなしに膝を払う。
 視線を下げた弊害か、足下に密生した小さな茸を見てしまい、何とも言えない気分にさせられた。豪華なベッドでゆっくり眠りたいとまでは言わないが、せめて胞子を浴びることなく睡眠をとりたい。少なくともこの辺りで野宿はできないと判断し、足下に置いてあったリュックを担ぎ直す。
 巨木から数歩離れ、朽ちて倒れた幹に足をかける。弾みをつけて跳躍し、テンポは倒木の上に柔らかく着地した。一連の動作に淀みはなく、体に負担をかけるようなこともない。
 倒木は太く大きい。テンポが女性として長躯であることを差し引いても、上に乗ってバランスを保つことは困難ではなかった。一面に広がる緑の裾野を見渡し、感嘆とも呆れともとれる溜息をこぼす。
 ──緑の裾野、ね。
 確かに緑は繁茂している。
 大袈裟なほど、繁茂し過ぎているとも言える。
 だが、この森が瓦解密林と呼ばれるには、また別の理由があった。
 台風がこの森林だけを狙い撃ちしたかのような、凄惨な光景。
作品名:紺碧塔物語 作家名:名寄椋司