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紺碧塔物語

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プロローグ/たとえば洞穴の奥底で息を引き取るように


■ □ ■ □ ■

 目の前に転がる死体を見下ろし、イオニスは掠れた息を吐き出した。生活圏の大半を支配するどぶ川の悪臭すら押し退けて、濃厚な腐敗臭が鼻腔を刺激する。絶命してからどれぐらい経過しているのかはわからない──死体は鼠と油羽虫(コツクローチ)に貪り食われて原型を留めてはおらず、衣服の類は既にあらかた持ち去られてしまった後だった。気にしていたそばかすも、母親譲りだと自慢していた褐色の肌も、猫のように挙動の落ち着かない双眸も、全てが食い荒らされ、糜爛し、腐れ果てている。
 下水路の遙か遠方から、ごうごうと唸るような水音が響き渡る。時計のような装身具など何の意味も持たないこの地下暮らしで、時刻を知る唯一の手がかりだった──地上に存在する大魔導都市シオンガングが、夕刻になって下水を一気に洗い流す時間だ。この音が聞こえたら、イオニス達暗渠の民(サブマージ)は貯水溝に逃げ込み、一気に上昇する水位から逃げなければならない。無数に張り巡らされた地下水路にはそういった逃げ場が幾つか点在し、暗渠の民同士で縄張り争いが起きることも多かった。かつては仲間だったこの少女も、そういった小競り合いに巻き込まれて殺されたのだろう。
「──ナーシャ、死んじゃったナ」
 背後から声が聞こえる。振り向くだけの気力もなく、イオニスは黙って首肯した。こちらの動きに気付いたのか、背後から歩み寄るその人間はただ失笑だけを返してくる。特に挨拶もなく横に並ぶと、彼女は唐突にこちらの背中を叩いてきた。もっとも、彼女はいつだって唐突だったような気もする──唐突に現れ、唐突に喋り、唐突に去って行く。それこそ地下水路を洗い流す下水の怒濤のように。
 思い切り強く叩いたつもりだったのかもしれないが、結局彼女もまた暗渠の民の一人でしかない──常に欠食状態で栄養は不足し、筋肉と呼べるような代物はほとんど備えていなかった。生きて、食って、寝るだけが精一杯の貧弱な体だ。さして痛みを覚えることもなかったが、それでもイオニスは小さく顔を歪めた。つまりは、肉体よりも心が痛んだということなのだろう。
 ナーシャが死んだことに関してではない。
 仲間の死に慣れきって、涙の一つもこぼせない自分があまりに惨めだったのだ。
 惨めさに浸る暇もない。水音は次第にその圧を増し、今にもこの死体もろともちっぽけな人間二人を呑み込もうとしている。それでも両足に力を込めることができず、イオニスは裂けた肉袋としか形容しようのない物体を黙って睨んでいた。
「どこの奴らかナ。七十九番区画の奴らかナ? D/D/D(トレス・ダン・ダーティ)の連中かもしれないナ。最近は青空求道会も出張ってるって話だしナ。おっかなくっておちおち散歩もできないナァ」
「……どこの連中でもないさ」
 惨めに──惨め以外に言い様もなく、虚しさを噛み殺し。
 イオニスはどす黒い下水に歪んで映る自分の顔を見遣る。視線の強さだけで人を殺せるなら、今すぐにでも自分自身を貫き殺してしまいたかった。
 生命を維持できる限界まで削げた筋肉。身長は高くもなければ低くもなく、十二歳の少年としては平均的なものだろう。背中まで伸びた黒髪。くすんだ白の肌──やぶ睨みの三白眼、傷跡の残る唇。誰に聞いても顔形は整っていると言われるのだが、暗闇の質量が全てを押し潰すこの地下水路で容姿端麗と褒められたところで、さして嬉しいわけでもない。死体になってしまったナーシャや横の女と同じく四肢は細いが、イオニスの場合はそこに長さが加わる。猫背で、いつでも活力の底が尽きたような表情をしていた。
 イオニス。家名などあるはずもなく、ただのイオニスと呼ばれる。そして人から呼ばれたときに想起するのは、ようするに粋がって凶相を気取る子供の姿だった。
 対して、横に立っている少女は活力の塊のような人間だった。灰色の髪を頭の後ろに結んで垂らし、アーモンド型の双眸はまるで落ち着きがない。目の下には濃い隈が浮かんでいる──万年寝不足だと自称している通り、今もやけに眠そうな目付きをしていた。
 唇はやや肉厚で、時折意味もなく舌を出してはちろりと空気を舐めるような仕草をしていた。歳はイオニスより一つか二つ上だったはずだが、容貌も性格も、色濃い幼さが透けて見える。痩せぎすの短躯は幼女めいた雰囲気を醸し出すのに一役買っていた。
 ──シシュカ。
 やはり家名のない少女の名を、頭の中だけで諳んじる。
 意味を為さない言葉の羅列が脳を埋める。何を言うべきか、何を言ってはいけないのか、その程度の判断すらできないままに戸惑い、結局絞り出したのは熱した鉛のような溜息だけだった。それでもこちらの意図を汲んだのか、シシュカは死体を爪先で弄るのを中断する。
「──どこの連中でもないなら、誰がやったのかナ?」
「ソダだよ。リウルとソウワも。余所の連中じゃない──同じ窖(あなぐら)の仲間だ」
 鋭く舌打ちし、踵を返して歩き始める。いよいよ水音は実際の圧力すら備え始めていた──立ち話している余裕などあるはずもなく、避難場所を目指し小走りになる。後ろからついてくるシシュカが、何も考えていないような気楽そのものの声で会話を続けてきた。
「──ソダ。あの悪たれどもナ。でも何であいつらの仕業ってわかるのかナ?」
「ビープスから聞いたんだよ。あいつはたまたまソダ達がナーシャを強姦してるとこを見つけちまったんだ。半殺しにされて、下水に流された。俺が見つけたのはたまたまだ」
「イオニスは散歩好きだからナァ。死体とか半殺しの仲間とか、よく見つけるもんだナ」
「ビープスもすぐ死んだから、死体二つだけだよ、見つけたのは」
 意味のない抗弁ではあった。だが今は目に見えるもの、耳に聞こえるものの全てを拒絶してしまいたかったのだ。子供っぽい激情に駆られる程世間知らずではないつもりだが、それでも煮えた鉄のような怒りが胸中に渦巻き鼓動を早めている。
「──それで?」
 問いは、やはり唐突だった。
 いつの間にか追い抜かれていたことも含めて、シシュカは唐突そのものの調子で言葉を紡いでくる。
「死体を見つけて、犯人がわかって、それでイオニスはどうするのかナ?」
「どうするって──」
 ──どうしたらいいんだよ。
 絞り出した答えは、シシュカを満足させるものではなかったらしい。露骨に呆れたような顔でこちらを見詰め、頭の横で人差し指を回す仕草までしてみせる。
「どうしたらって、それはイオニスが決めることなのナ。仇討ちするのか、黙って知らんぷりするのか、それを決めるのは君であって僕ではないのナ」
「──仇討ち?」
「好きだったんよナ? ナーシャのこと」
 言葉の切っ先が腹を刺す。
 臓腑が抉れるような痛みを生んで、尚シシュカの唇は止まらない。互いに距離を縮めることもないまま、黒く塗り潰された水路を駆けていく。
「ソダもそれを知ってたから、ナーシャを犯して殺したんだよナ? 君ら超絶仲悪いもんナァ」
「……あいつらが勝手に突っかかってくるからだろ。俺は──」
 ──あんな奴ら、どうでもいいよ。
「どうでもいいし……ナーシャのことだって、好きだけど、もうどうしようもないだろ」
「どうしようもないって、どういう意味ナ」
作品名:紺碧塔物語 作家名:名寄椋司