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幼年記

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園児の頃、幼稚園の隅に入ったことのない部屋が一つだけあって、いつか入ってやろうと機会を窺っていた。
部屋はコの字型に中庭を囲む園舎の、三本目の突き当たりにあるのだけれど、いつでも開いている教室の引き戸と違って、その部屋の灰色の扉は開き戸で、いつでも鍵が閉まっている。
先生にあすこは何かと訊いても、魔女が居るだの虎が居るだの、適当なことを言うばかりで要領を得ない。

それでますます見たいと思って、辛抱強く待っているうちに、とうとう開いているのを見つけた。
幼稚園の、年に一度の祭りの際、園児も先生も総出で、部屋の飾り付けや出店の準備をしている時に、つまらないので抜け出して、人気のない廊下をふらふらと件の部屋の前まで歩いてきたら、部屋の扉が、誰かの出て行った様子のまま半開きになっているのであった。
周りに誰も居ないのを確かめてから、ノブに手をかけて引いてみると、簡単に転がる教室の扉に比べて随分重い。
やっとのことで中へ入ったら、部屋の中は薄暗い。
正面と左右の壁に小さな窓があり、それぞれにカーテンがかかっている。
カーテンは白地に小さな黄の花柄である。
他の部屋の板張りとは違う、絨毯の床の上に、一人用の小さな折り畳み卓が二つずつ二列に並んで、突き当りにも一つある。
いずれの卓の上も、書類やペン立てや電卓やはさみや、いろいろなもので混雑している。

二列の卓の間を通って、突き当たりの卓へ来てみたら、以前に皆で教室で描いて提出させられた親の似顔絵らしい、画用紙が積み重なっていて、その上へ銀の皿が重石に置いてある。
その皿の中に赤いセロファンの包みが五、六個、窓の漏れ日に濡れたように光っていた。
飴だろうと思ってその中の一つをつまみあげ、包みを解いて中身を口へ放り込んだら、思っていたのと裏腹に大変苦い。
吐き出そうかどうしようか迷っていると、不意に表の廊下で、人の歩いてくる物音が聞こえた。
心臓が点になるほどびっくりして、部屋の隅へ駆け込み、しゃがんで聞き耳を立てた。
物音は、つか、つかと一足ずつゆっくり近づいてきて、扉の前で止まった。
そのまま扉越しに、中の様子を窺うらしい。
目を固くつぶってじっとしていると、口の中でさっき放り込んだ苦いものが溶け、口腔の内側を伝っていく感触が、闇の中にはっきりと感じ取られた。
声を上げて逃げたくなるのを何とか抑えながら、身動きもせず堪えた。
十秒か十分か分からない、とにかく長い時が経った。
物音は扉の前で止まったきり、なかなか動かない。
はじめは息を詰めて隠れていたけれど、あんまり長いこと相手が動かないので、だんだん緊張が煮詰まってきた。
やがてもうこれ以上堪えるのは無理だと思ったから、どうにでもなれと思い切って扉へ行き、そうっと押し開けて外を覗いたら、何もいない。
何だ、と思って安心したけれど、もうそんな疲れる思いをするのは懲り懲りだから、口の中にまだ小さく残っている苦い塊を庭へ吐き棄てて、教室へ戻った。

それがコーヒーキャンディーというものを食べた最初であって、おかげでそれから三十年近く経った今でも、コーヒーの味にだけはどうもうまく舌が馴染まない。
作品名:幼年記 作家名:水無瀬