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ただ書く人
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過去をビールに流す

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 兄とふたりで住んでいたアパートからおれの職場までは遠くなかったが、これ以上兄の負担になることはできないので、おれは就職してすぐ近くにアパートを借りた。その後、おれは一回、兄は二回引っ越しをしているが、いずれも同じ市内で、年に数回はどちらかの家や居酒屋などで顔を合わせていた。
 時には、どちらかの友人や恋人をまじえて酒を飲んだこともあった。どんな相手といっしょでも兄は変わらずに朗らかで優しかった。何かに突出した能力はなくても、大して給料をもらっていなくても、兄は尊敬すべき男だった。少なくともおれにとってはそうだった。
 その兄が自宅で首を吊った。理由はわからない。遺書もない。仕事上の悩み、人間関係、健康問題、経済問題、自殺には様々な理由があると思うが、兄にそういった理由があるとは思えない。それでも兄は死んだ。

 兄は独身で、両親はいないようなものなので、当然葬儀に関しては弟のおれがすべての手配をしなければならない。おれは会社に事情を話して休みをもらい、兄の友人や職場に連絡をして、葬儀社とのやりとりをこなした。先祖代々の墓などはないため墓には悩んだが、すぐに納骨をしなくても大丈夫なようなので、とりあえず保留とした。思い切って墓を買おうと考えてはいるが、すぐに買えるものでもないらしい。
 通夜を明日、告別式を明後日に控えた現在のおれの悩みは母のことだけだ。わざと母について考えるのを最後にしていた。おれは母に十五年会っていないのだ。そして兄も同じはずだった。母と会った、電話をした、といった話は兄から聞いたことがない。そんな母に兄のことを伝えるべきだろうか。
 正直なところ、おれは母に連絡をしたくない。しかし、それはおれが母と話すこと、会うことを嫌だと思っているからだ。そんなおれの感情など抜きにして考えなければならない。兄は母が葬儀に来たらうれしいだろうか。いや、死んでいるのだからうれしいも何もあったものではない、ということくらいはわかる。それでも、兄が母をどう思っていたのかを知りたい。かつて兄は母に「あんたの子じゃない」といった。兄は母を嫌っていた。しかし、それでも母は母だ。そもそも兄が母を嫌っていたのは、おれのせいだ。おれという存在がなければ、兄と母は仲のいい家族として暮らしていたのではないだろうか。
 母はどうだろうか。兄に会いたいと思うだろうか。きっとそうだろう。母は兄を愛していた。少なくとも以前はそうだった。それ以前に、息子が死んだのを知らない母親があったら、それはあまりに哀れではないだろうか。葬儀に来るかどうかは別として、おれが嫌なのも我慢して、連絡だけはしておくべきだろう。
 おれは意を決して携帯電話を手に取り、まだ繋がるかどうかわからない、以前三人で暮らしていた家の電話番号を押した。その電話が繋がらなければ母に連絡ができなくてもしかたがない、とおれは考え、それに期待していたが、まだその電話番号は使われていた。しかし、しばらく呼び出し音が鳴ったあとで電話に応答したのは、留守番電話の機械音声で、それはおれにメッセージの録音を促した。
 母と話をしたくなかったので、留守番電話だったことにおれは胸をなでおろした。もちろん、その電話番号が他人のものになっている可能性も考えられたが、それならそれで構わなかった。かえってそのほうが好都合なくらいだ。おれにとって大事なのは、母に兄の死を伝えることではなく、おれがそのための行動をした、という自己弁護の材料を持つことだった。
 おれは電話口に向かって、自分の名前、兄が死んだこと、通夜と告別式の場所や日時、自分の連絡先を簡潔に述べ、「メッセージを録音しました」という機械音声を確認するとすぐに電話を切った。

 その後、母からおれに電話がかかってくることはなかった。電話番号が変わっていたのか、おれのメッセージを聞いていないのか、あるいはおれに連絡をしたくないのか、理由はわからないがどうでもいいことだ。おれは確かに伝えたのだから。
 翌日の通夜の時間になっても母からの電話はなく、坊主が経を始めた頃には、おれはもう母のことを気にしていなかった。しかし、その通夜に母がやってきた。
 その人物が焼香をあげてからおれに頭を下げた際、おれはちらりとその顔を見てそれが母だと気づいた。十五年会っていないとはいえ、見間違うものではなかった。すでに五十歳を超えているはずだが、すっかり老けこんだ、というほどではない。顔を見たのはほんの一瞬だったが、まだ三十代にも見えた。その雰囲気から、母がまだ水商売をやっていることを、おれはなんとなく感じた。
 そして、うろ覚えだった十五年前の母の顔が急に鮮明に思い起こされ、おれは不意に吐き気をもよおし両手で腹と胸を押さえて首をすくめた。それから出口を見やった時には、もう母の姿はなかった。
 その後も弔問客が続き、おれは水飲み人形のようにただ繰り返し頭を下げながら母のことを考えた。おれに何の連絡もなく通夜に来るとは思っていなかったが、やはり兄のことを想っていたのだろうか。あるいは、連絡を受けたから礼儀として来ただけなのだろうか。別室で振る舞いの食事が出されているが、母はそこにいるだろうか。きっといるだろう、と思って、おれはその後母とかわす会話のシミュレーションを始めた。
 母はおれを愛していなかったし、おれも母を愛していなかった。憎しみのような感情を持ったこともあるが、今となっては憎しみも怒りもない。とはいえ、十五年振りの感動の対面、というものもないだろう。ただギクシャクとした会話をするだけだ。会いたくない、話をしたくない、という気持ちは相変わらずでモヤモヤとしているが、一度話してしまえばすっきりするのかもしれない。母が普通に接してくるのなら、おれも普通に接しよう。過去のことを考えないようにして、表向きは平静に会話ができる程度にはおれも大人になった。今どこに住んでいるのか、仕事は何をしているのか、そんな話をして別れればいい。あるいは、後日食事でもするかもしれない。それは和解、というほどのものではなく、再び家族になることは考えられないが、心の整理をするきっかけにはなるだろう。
 弔問客が途絶え通夜が終わると、おれはすぐに振る舞いの食事が出されている別室に向かった。あるいは母はもう帰ってしまったかもしれない、と思っていたが、別室に入ってすぐ母の姿を見つけた。母のことを「お母さん」と呼ぶのには抵抗があったが、他に何と声をかけていいのかわからず、おれは母の正面に立って十五年前までと同じように「お母さん」と呼びかけた。
 その時にはもう、母はおれの瞳に視線を合わせて眉を寄せていた。それから無言のまま、手に持っていたグラスの中のビールをおれの顔にぶちまけた。
「あんたのお母さんじゃない」母は叫ぶようにいった。「あんたはわたしの子じゃない」
 こんなにも強い感情を母からぶつけられたのは初めてのことだった。おれは突然のことに戸惑い、何もいえずにビールがかかった目を手の甲で拭った。
 そのおれに母は顔を近づけて呟いた。「あんたが死ねばよかったのに」
作品名:過去をビールに流す 作家名:ただ書く人