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佐崎 三郎
佐崎 三郎
novelistID. 27916
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yesterday's egg (きのうの卵)

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あのBEATLESの名曲「Yesterday」の仮タイトルが、「洋風炒り卵(Scrambled egg)」だったというのは、マニアでなくても知られているエピソードかも知れない。作詞・作曲・ヴォーカルはPaul McCartney。演奏は弦楽四重奏なので他の三人は不在である。彼は夢の中で聴いたメロディをもとに作ったという。夢の中で作曲した・・・。

たまたま読んでいた文芸評論集の中で、丸谷才一氏の短編小説『樹影譚』を紹介していたのだが、この物語の発端も、他人の本で読んだのか、実は自分で創作したものなのか、記憶の奥のものなのかというエピソードが底辺に流れている小説である。あの村上春樹氏も『若い読者のための短編小説案内』でこの小説を取り上げて分析・考察していた。記憶。夢。勘違い。謎めいた怖い話であった。

わたしの個人的なエピソードは(ここで披露することに全く意味はないかもしれないが)、昔、若いころ、小劇団に関わっていた時、質の悪い「ダジャレ」が蔓延し、風紀を乱していると「ダジャレ禁止令」が発令されたことがあった。みんなは他人の発言を聞き洩らさないように耳を澄ませ、目を光らせ、もし誰かが言おうものなら、紙に書き、風紀ポストに投書した。何故かその対象の一人であったわたしは油断せず、口を噤み、ダジャレをできるだけ言わないように努めた。楽日にその開票が行われ、わたしはトップで極悪人に仕立てられた。

まあそれはそれとして、腹が立ったのは、ある人間が書いてちくったメモである。それはこんな風な内容だった。「夢の中に○○君が出てきて、くっだらないダジャレを言った」と。夢の中?は?わたしがお前の夢の中で言ったというのか?それは、わたしの仕業なのか?何を言ったか知らないが、それは投書の対称なのか。もしかしたら現実に言ったかも知れない。しかし禁止令が布かれる前の話ではないのか。その記憶が夢で再生されたのかも知れない。しかし、それは違うだろう。夢の中は現実なのか?あの子にとっては。

「記憶」や「夢」のなかで起こる「現実」はほんとうの現実と密接に繋がっているのだ。Paulは自分が聴いたメロディを自分のオリジナルでないかどうかを、『樹影譚』の作者のように、周りの人に訊いてまわったという。やはり誰も聴いたことがないと。じゃあそれはやはり夢の中で作曲したのか。逆に言えば、普段は現実の中で夢をみながら作曲していたのか。

かつてわたしもお遊びで曲を作ったことがあった。やはり舞台で使った曲である。タイトルは『真夜(まよる)の虹』。夜にプリズムを見ながら、夜空に架かった虹を夢見、切ない孤独を歌った。いまから25年前にもなるので、どこから歌詞やメロディが出てきたかは全く分からない。稚拙で陳腐なバラード風の静かな曲で、コード進行も特別凝ってもいない。循環コードとクリシェぐらいだ。だから夢の中で、なんてロマンティックなことも言えない。たぶん鼻歌と言えばいいのかも知れない。理論など知らないわたしとしては、気分はPaulでありJohnであっただけだ。ただ、好きな人を「夢見て」作ったような記憶がぼんやりとある。

約40年間、夢を記録し続けた鎌倉時代の僧、明恵上人の故郷、和歌山県の有田へ行ったことがあった。壮大な海を見下ろす峯に庵を建て、そこで仏に出会う。それは現実だったのか、夢だったのか。リアルな夢。夢も現実の一つなのか。夢とは明恵上人にとって特殊な現実であった。境目はない等価のものとしてあった。

また夏目漱石の『夢十夜』も、現実と夢が入り混じり、掻き回され、新しい世界を作る。もう一つの自分=現実。「わたし」が二人いるかのような。いやそれ以上。世界は幾つもあり、その分「わたし」もいる。現実と夢が幾度も幾度も掻き回され炒められ、混じり合い、不定形の、流動している世界に生きている。まさにScrambled eggのような。何処が始まりで何処までが果てなのか分からない。そのものが何かは分からないような形。それが原型である。その境界のない世界に「いのち」という一線が引かれて、二元論になる。

夢想してみる。広大な交差点、そうそこはスクランブル交差点。その真ん中に「わたし」は立っている。周りの風景は一瞬一瞬静止しているかのように見えるが、もの凄いスピードで膨大な数の人間や物が行き来している。「わたし」も立っていながら、実はもの凄いスピードで動いている。速すぎて分からないのだ。そして、何千年何億年かけてこの交差点を横切ろうと進んでいる。進んでいる?それは分からない。方向が全くないのだから、前か後ろか前後左右か、上か下か、実は何も正しくはない。ただ何かに引き寄せられているのか、または追いやられているのか。動いている本人には認知する能力がない。おそらく、なにかの力が働いている。動いている「わたし」は意志であるかも知れないが、心臓は、命は勝手に動いている。この勝手が実は勝手ではないのだと知能ある生物は深く考え、謎を事実に変えてきた。しかし、すべては勝手に訳が分からなく成長しつづけるだけである。夢の中で。夢想する「わたし」。

最後に、浜口庫之助作詞作曲、歌・高田恭子、『みんな夢の中』でお別れだ。

恋はみじかい/夢のようなものだけど/女心は夢をみるのが好きなの
夢のくちづけ/夢の涙
喜びも悲しみも/みんな夢の中

そう、みんな夢の中、なのだ。ハマクラさんの夢。そう、きのうの卵、なのだ。 
                                             (了)