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佐崎 三郎
佐崎 三郎
novelistID. 27916
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針の穴を覗くと

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もやしのみそ汁の作り方を母に教えてもらったのはいつだったか。そんな大そうなものではないけれど、わたしはその味が好きになり、一人でたまに作るようになった。手鍋に油を引き、生のもやしを入れ、大体火が通ったぐらいで一旦弱火にし、水を入れ、味噌と鰹だしを入れ、そのまま煮立てばもうお仕舞い。お椀に装ったら七味を軽く振りかけていただくのだ。

学生時代に友達の下宿に泊ったときは、わたしがいつも朝食係で、毎朝もやしの味噌汁を食べさせた。数日の我慢なので彼も何も言わず食べてくれた。こういうことは誰にもしなかったのに、何故彼にはしていたのか。大学の講義やサークルで遅くなったら、帰るのを待って一緒に食べた。さすがに夜はもやしではなかったけれど。
長屋のような寮で、同級生が数名いつも夜は飲みに来ていた。自然と言葉も交わすようになり、笑いが普通に起きる関係になった頃、合コンに誘われたことがあった。

大学は関東のI県の県庁所在地にある国立大学で、ほぼ学生を卒業と同時に教員になる。地元民のコースの一つ。みな先生の卵だ。実はわたしの父の母校であるが、わたしは私立に行ってしまったので、少し残念だったし、淋しくもあった。そんな気持ちもあったから、年に数回遊びに来てしまうのかも知れない。合コンの相手はやはり同じエリアにある短大の女学生である。こちらは幼稚園の先生予備軍である。そんなありがちな設定ではあったが、まだ合コンの経験の浅いわたしは怯えながらも参加させてもらったのだった。

12月末の夜の程よき頃に集合した10人前後の男女がお酒とツマミでなにやら話を始めたのだ。わたしは余所者ですから隅の方で大人しくしていたが、飲み慣れないお酒も少しずつ身体を巡って心地よくしていったのだった。正直に言えば、どうしていいか分からずに参加したのだった。まだ合コンの楽しみ方も知らない初な大学一年生は、次第に目の前がアルコールの染み込んだ薄いビニールに包まれていき、気が付くこともなく頭と体がちぐはぐになり、口から発する言葉は、人から問われたことにきちんと答えているかどうかも分からなくなっていた。誰かが海外旅行に行くらしく、一生懸命パスポートの取り方を説明していた。まだそれぐらいの自覚はあった。しかし、時間がゆっくりと流れ、歪み、いつの間にか滞り、わたしはわたしを失っていった。

下半身から腹部に違和感があった。トイレに向かった。足はふらふらで、ほぼ宇宙遊泳をしているように黒いドアに辿りつき、中へと入った。ここからはもう記憶は朧である。多分、用は足していたと思う。だが、その場に崩れ落ち、洋式便器に縋りながら吐き続け、もうどうにもならないのか、身体から力が抜けている。立てないし、目は回っているし、胃は痛み、噴水が水を吸い上げるかのように締めつけられ、息もうまくできない。そしてどれくらい経ったのか。

寝てしまったのか。気を失ったのか。なにやら声が聴こえる。身体の両側の腕が持ち上げられているのがなんとなく分かる。わたしはどうしたのか。いまどこなのか。なぜこんな状態なのか。声が微かに聞こえる。まったく、しょうがないな。せっかくの合コンが。立てほら、足を踏ん張って。しかし、なんてこった。店から連れ出されたのは覚えていない。タクシーのドアから乗り込むあたりの情景はぼんやり覚えている。そして彼の寮の近くで下りている映像も。また、声も聞こえる。お前のせいで、二次会行けないよ。ほんとにしょうがないな。ほら歩け、ほら、くそ。

朝か昼か分からぬまま目が覚めた。頭が痛いので起きた。ああ、起きたか。彼の声が狭い六畳一間の部屋に響いた。昨日はどうなったの?覚えてないよなと彼は明るい声で笑いながら言った。
「潰れたのか」
わたしは目を閉じ、昨夜の出来事を思い出してみた。しかし骨だけの傘のような記憶しかない。彼に怒られていることが一番耳に残っている。
「ごめんな。送ってくれてそのままだったんだよね。みんなは二次会行ったのか」
まあいいよ。足元の肩幅ぐらいの木製テーブルに食器を置く音が小さくコトコト鳴っていた。なんとなくあたたかい白飯の香りがする。炊きたての湯気が部屋の中の雲になっているのを想像していた。はぁーと布団の中で深い息をして、身体を両腕で起こしながら、彼を見た。ぼんやりしていた。ああ、眼鏡をそろそろ常時しないと駄目なのかなと思った。右手を軽く握りしめ、人差し指の折れ曲がっている隙間を望遠鏡にして覗いてみた。まるで針の穴からみたように周りはピンボケで彼の細い背中がくっきり見えた。目を離して、また溜息をついた。なにか、ほんの少し大人になった気がした。

できたよ、と声がした。サッカーで焼けた頬骨が陽の光で白く輝いていた。四つん這いでテーブルにいくと、白飯と味噌汁がお雛様のように並んでいた。もやしだ。声が思わず出てしまった。これしかないから。なんかうまくできなかったよ。彼の大きな垂れ目がわたしを見た。こんなものに上手いも下手もないよ。絶対、美味いよ。これは。

あれから30年以上経った。去年、故郷の居酒屋で25年振りに再会した。彼は来年から中学校の教頭先生になると言った。そうか。立派だねと肩を叩くと、お前は変わんないねと言う。わたしは東京で職を失くしたばかりだったが、あの時と同じ垂れ目を見たら、ははと笑ってしまい、右手の指を折り曲げて、もう一度彼を覗いたのだった。(了)
作品名:針の穴を覗くと 作家名:佐崎 三郎