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あなたの空を飛びたい

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『あなたの空を飛びたい』

 梅雨が明けようとする頃である。
日本最大の湿原である釧路湿原の近くにある小さな街の古びた旅館である。そこに一人の男と一人の女が泊まっている。
 昼過ぎ、男は旅館の近くの草むらで白い女性用帽子を見つけた。きっと、隣の部屋の女性のものだと思って、隣の部屋の扉をノックすると、水色のシャツを着た若い女性が出た。清楚で美しい顔立ちで美しくて長い黒髪をしている。
「この帽子、あなたのでは?」と言って白い帽子を出した。
 女は、「どこで拾いました?」と尋ねた。
「旅館の前の庭で拾いました」
「どうして、私だと?」
「前の日、あなたが被って旅館を出るのを見ました」
「捜していました。見つかって、よかった……」といかにも嬉しそうな顔をした。
「時間さえあるなら、中でお茶でもどうぞ」と女が勧めた。
男には時間がたっぷりあったので、勧められるままに部屋に入った。女は人恋しかったのか、嬉しそうに話を始めた。
女は釧路湿原の近くで熊に遭遇したという話をした。
「目と目が合いましたの。そうしたら、熊の方が逃げていってしまったの。馬鹿げた話と思うでしょ?」と女は白い歯をみせて笑った。
「そんなことはありません。きっとあなたが美人だから、驚いて逃げたんでしょう?」と男は答えたが、女の反応はなかった。
沈黙が続いた。
 突然、女は「そうだ、私、立川奈津子といいます。二十四にもなって挨拶を忘れてしまうなんて……」と恥ずかしそうに沈黙を破った。
「まだ、まともに働いたことがないから……」と付け加えた。
「まともに働いていたって、君のように、立川さんのように礼儀正しくなれない。全く現代のOL達に君の爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。僕は山田幸夫と言います」
 奈津子はじっと幸夫を見ている。
「立川さんからすると、僕はどんなふうに見えますか?」
 山田幸夫は大手商社マンである。学生時代ときはラガーマンだった。そのせいで骨太で、眉毛が太く、浅黒い顔をしていた。
「アグレッシブな遣り手のビジネスマンみたいな感じがしますね」
「昔は確かにそうだった。みんなに疎んじられた。まだ、そんなふうに思われていますが、今は適当にやっているだけですよ」と幸夫は子どものように照れた。
「きっと、みんな、山田さんを妬んでいるだけです。私も、力一杯働いて、自分の力を試したい。でも、もう遅い気がします……」
「何を言っているんですか。今からだって、十分間に合う。決して遅くはない。立川さんのように若ければ……でも、失礼かもしれませんが、何歳ですか?」
奈津子は微笑みながら軽く首を振った。
「初対面の女性に年齢を聞くのは失礼ですが、答えます。二十四歳です。働きたいと思うけど、私を雇ってくれるところをどこにもありません」
「どうして?」と訝った。
「分かるでしょう、足が悪いです」
「今時、足が悪いだけで雇わないところはどこもないはずだ」
「足の話はよしましょう。自分からしたのに……ごめんなさい」
「謝る必要なんかどこにもない」
「私はいつもこうなんです。人と仲良しになれそうになると、自分の方から一歩退いてしまう。すると、友達もそういう態度をとるようになる。いつしか、友達が離れてゆく。私って、人付き合いが下手な、馬鹿な女……」と今にも泣き出しそうな顔をした。
「いや、私には、とても知的で感受性が豊かな女性のようにみえますよ。ほんの少し、現代に向かないのかもしれない。今は、雑な人間しか生きられない。あなたのような細やかな人は生きぬくのに厳しいのかもしれない」
 奈津子は首をふった。
「実を言うと、とても雑ななんです。掃除だって、一週間に一度しかしない。洗濯もそのくらい。だから、いつも母に叱られています。そんなことじゃ、お嫁にいけないって」と微笑んだ。

 旅館を囲む木立がざわめき始め、夕日が差している部屋の窓から風が忍び込んできた。
「緑の風だ……」と奈津子は呟いた。
「何か言いましたか?」
「緑の風と」
「緑の風ですか……ところで、ひとつ聞いていいですか?」と幸夫は奈津子の顔をうかがった。
 奈津子は軽くうなずいた。
「あなたはなぜ、ここへ?」
「鳥になって、湿原を見たかったから」
 幸夫は神妙な顔で、「鳥になれました?」と聞いた。
すると奈津子は微笑み「鳥になれなかったけれど、空の上から、この湿原を見ました。叔父が飛行機の会社に勤めていて、無理にヘリコプターに乗せてもらいました。鳥のように。とても爽やかな風を感じました。これが生きているってことだと思いました。もう、知っていると思いますけど、私は事故で片足が不自由なってしまったのです。とても、それが悔しくて……、何度死を思ったことか、数えきれません。足をなくして、恋人とも別れました。三年間、家に閉じ籠もり、そればかりを悔いていました。でも、ある日、部屋に蝶が迷い込んだのです。とても、綺麗な蝶でした。都会にどうしてこんな蝶がいるのだろうって思いました。ふと、蝶は、人間をどう見ているのだろうと気になって、飛行機に乗りました。家は点のように見え、都会も抱きしめられるほど小さく見えました。何だか、そんなちっぽけなところで悩んでいた自分が急に馬鹿馬鹿しく思えました。そして、あるパンフレットに出会ったのです」
 何か思いついたように幸夫は、「それはもしかして、釧路湿原のパンフレット……」と言った。すると、奈津子はうなずいた。
「不思議ですね。僕の妻と子もやはり三年前交通事故に遭いました。不幸にも帰らぬ人になりました。先週ですが、偶然、妻がしまっておいたパンフレットを見つけたのです」
幸夫がここに来ることを決めたのは一か月前のことである。その経緯はこうである。―――交通事故のせいで、妻と子と過ごした時が切り取られてしまった。その喪失感を抱いたまま生きてきた。何を頼りに生きていけばいいのか分からなかった。そんな自分に不甲斐なさを感じつつ、どうすることもできず、結局、酒に溺れる日々を送っていた。それが一週間前、たまたま机の奥にあった釧路湿原のパンフレットを見つけたのだ。妻が生前見せてくれたパンフレットである。あれから三年も過ぎている。
「ねえ、ここへ行かない? そこで緑の風の中で感じてみたいの。緑の風を」とパンフレットを見せたことあった。妻から誘われたときは聞き流したが、再びパンフレットを目にしたとき、旅することを決意したのである。
 
「山田さんは緑色の風を見ました?」
「さっき呟いていた緑色の風ですか?……まだ、見ていません。まだ来たばかりですから」
「私はもうここに来て四日になります。車も運転できますから、レンタカーであちこちに行きました」
「ぜひ、見てください。湿原に立っていると感じます。緑色の風って、おかしいですか?」と言うと、口に手をあて大笑いをした。まるで幼子のように笑うので、幸夫もつられて微笑んだ。
「初めて笑いましたね」と奈津子は言った。
「初めて?」と幸夫が言うと、奈津子はうなずいた。
「初めてですか……」と幸夫は妙に納得した。
作品名:あなたの空を飛びたい 作家名:楡井英夫