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Slow Luv Op.3

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 八月二十二日は快晴。雲一つない青空が、暦の上での秋を裏切っていた。
 今日のホールは前回とは場所が違う。地元のオーケストラが付くということもあって、箱が大きくなったのだ。ピアノとの協奏曲の他、同じくベートーヴェンの交響曲も予定されていた。当然、ショパン・ファイナリストのユアン・グリフィスはトリを飾る。
 調律データは同じだった。前回、あれだけやり直しをさせておいて、結局変わっていないところをみると、やはりあれは高度な嫌がらせだったのだろう。当のユアンはまだ姿を見せていなかった。
「中原」
 背後に人気を感じ、仕事の手を止めて振り返ると、中原さく也が立っていた。
「悪かったな、何か変なことになって」
「あんたが謝ることはない」
 相変わらずのポーカーフェイスで、彼は答えた。まだ途中だからと断って、悦嗣は調律を続けた。さく也は近くのヴァイオリン席に座った。時折りホール・スタッフが、目を止めて行過ぎる。オケのメンバーだとでも思うのか――傍らにヴァイオリン・ケースがあったので――、軽い会釈付きだ。
 去年の月島芸大での模範演奏の時同様、さく也は調律の様子を黙って見ていた。悦嗣は緊張で指先が冷たくなるのを感じていた。
 あのヴァイオリンと弾く。音が耳に蘇る、『シャコンヌ』の音が。
「Sakuya!」
 しばらくして、よく通るテノールが響き、他のスタッフが仕事の手を止める。悦嗣の手も止まった。ユアン・グリフィスの登場である。 彼は客席からステージに上がり、足音も高くさく也に近づいた。さく也は人差し指を口に近づけ、無言で「静かにしろ」とユアンに示した。
 さく也の隣の席にユアンは腰を下ろした。何とか話しかけようと、引き結んだ唇がピクピク動き、息が漏れるが、さく也は頬を彼に向けたまま、取り合わない。
 二人の視線が悦嗣に集中する。「やれやれ」と悦嗣は思いながら呟き、仕事を再開した。


 曲はチャイコフスキーの『なつかしい土地の思い出 第三曲 メロディ』で、さく也の選曲だった。
 去年の暮れ、月島芸大での模範演奏ではこれの第二曲『スケルツォ』とラフマニノフの『ヴォカリーズ』を演奏した。二人でのレパートリーは実質その二曲だから、否応なしだと思っていたのだが、今回の重い鍵盤では速い前者は辛く、ユアンを納得させるには後者では弱すぎる――これは英介の弁――ということで、選び直したのだ。
 『なつかしい土地の思い出』は三曲からなるヴァイオリンの小曲集で、悦嗣はスケルツォ以外の二曲は、人前で弾いたことはない。ただヴァイオリン専攻のレッスンにつきあったことはあった。 しかしさく也と合わせたことはない。リハーサルなしのぶっつけ本番になるが、それでいいからと彼が退かなかった。
「いいさ、ボストンから来てもらうんだから。それに旅の恥は掻き捨てって言うからな」
と悦嗣は承知した。
 チューニングの前に軽く打ち合わせる。
「Moderato con motoだけど、Moderatoのままで始めてくれないか? 様子を見てから速度を上げたいんだけど」
「わかった。[A]の一小節前から上げる。[B]は?」
「流れで行ってくれていい。フォルテだからガンガン叩くさ。そこまで行ったら、指もこのピアノになれるだろうから。出来るだけついていく」
 ユアンはホール真ん中を横切る通路より、少し前の客席に座っていた。音楽を聴くには一番良い席だ。
 悦嗣がピアノの前に座り、傍らでさく也がチューニングを始めると、スタッフ達は何事が始まるのかとステージを注視する。さっきまでピアノを触っていた調律師と、てっきりオケのメンバーだと思っていた若いヴァイオリニストが、ゲスト・ピアニストの為に用意されつつある舞台に立ち、当のユアン・グリフィスが客席に座って二人の演奏を待っているのだから、奇異な感じを受けているに違いなかった。
 チューニングを終えたさく也が、悦嗣を見た。横目でそれに応え、軽く頭でカウントを取る。ピアノからの第一音が鳴った。
 入りの速度はModerato――程よい速さのメゾフォルテで始まり、表情豊かな三拍子で曲が進む。
 初めこそ慣れない鍵盤に戸惑った悦嗣だが、曲が進むうちに気にならなくなった。それがわかるのか、ヴァイオリンが変わった。本来の中原さく也の音に。
 響きわたる音色。揺れるテンポ。ホール内にいる人間は動きを止め、その場で聴き入っている。もちろん、悦嗣にはその様子を見る余裕はない。初めて合わす曲と言うこともあるが、未だにこのヴァイオリンには慣れないからだった。
 惹きつけられ、引き摺られる、気を抜くと、取り込まれてしまいかねない――そんな感覚が絶えず悦嗣を縛る。
 中原さく也との演奏は真剣勝負だった。弾き終わった後、満足感を得たことはなかった。音を追うことしか出来ない、自分の力の無さを思い知るだけだった。
 それでも弾かずにはいられない。彼のヴァイオリンの音を思い出し、ピアニストの指が目覚めるのだ。
――だからユアン・グリフィスは、中原と弾きたがるのか?
 最後の和音を掴んで、悦嗣はそう思った。指が音を記憶し懐かしむから、希求せずにいられないのかも知れない。ユアンの指は既遂の感覚を追い、悦嗣の指は未遂の感覚を追う。「もっと、もっと、もっと」と。
 ヴァイオリンから弓が離れ、ホールに音が完全に吸い込まれると、拍手が沸き起こった。その場に居合わせた人間が、たった一曲のために送ったのだった。一人を除いて。
 ユアンは立ち上がっていた。それだけだ。
 終わってさく也を見た悦嗣の視界には、その姿が入ったが、さく也はまったく見なかった。拍手が沸き起こっても、客席を見なかった。ただじっと悦嗣を見つめるだけだった。
「えっと…」
 その目に応えて、あわてて立ち上がる。思わずピアノに手をかけてしまい、悦嗣は顔をしかめた。余計な指紋が、蓋の端についてしまったからだ。調律師としての自分が戻る。 
 ピアニストの魔法は解けてしまった。


作品名:Slow Luv Op.3 作家名:紙森けい