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旅に行こうか

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『旅に行こうか』

 啓介(けいすけ)は行き着けのバーに行った。
 結婚してホステスを辞めたはずの葉子(ようこ)が隣に着いた。葉子は目が大きくて綺麗だ。そのうえスタイルもいい。美人と言っても過言ではないだろう。
「どうした? 結婚して、店を辞めたはずじゃなかったのか?」
「離婚したの。もう三ヶ月も前に。することがないから、またホステスをやることにしたの」と葉子と答えた。

 夜の仕事の手を染める女には、それなりの事情がある。葉子にもあった。彼女は中学生のとき父親を亡くした。家計を助けるために多くのバイトをした。苦学の末、高校を何とか卒業したが、なかなかいい仕事を見つからなかったので、ホステスをしていた先輩を頼って夜の世界に入ったのである。彼女の行動原理には、その根底に貧困がある。だからとって、彼女を賤しいと評価するのは早計である。誰にも迷惑をかけるに生きてきた。誰にも迷惑をかけずに生きることはそれだけで素晴らしいことなのだ。
結婚したのは相手に惚れたというよりも相手の生活力を期待していた他ならなかった。しかし、現実の彼との生活は火の車だった。彼は見かけだけを気にして金をかける男だったのだ。それが分かったとき、彼女の心は離れた。

「結婚したのは、最近じゃなかったか?」
「もう二年前よ。遠い昔のことよ」
「短い結婚生活だな。どうして離婚なんかした?」
「彼についていけなくなったの」
 啓介は笑った。
「おかしい?」
「いや……」
「結婚して半年後で分かったの。見かけを気にする、ろくでなしだということが。それに彼が求めていたのは私のハートではなく私の子宮。子供を産んで欲しかったみたい。生活力もないのに」
「そりゃ、結婚すれば、男はみんなそうだろ?」
「でも、私はまだ生みたいと思わなかった。そんなすれ違いが少しずつ大きな隙間に変った。セックスも嫌になって、しまいに顔を見るのも嫌になった」
 葉子は淡々と語った。
「でも、先生みたいな素敵な人なら、子供を産みたいと思ったかも」と葉子はじっと啓介を見つめた。そのとき、葉子は二十四歳のときのことを思い出した。啓介を好きになった。酔いに任せて告白した。そのとき、軽くあしらわれた。葉子はすぐさま「冗談よ」と取りつくろったが、本当は惚れていた。そして未だに心を寄せている自分に気付いた。三年前も経っているのに。
 啓介は顔を背けた。「先生と呼ぶなよ。しがない大学の教師だ。それに大人をからかうなよ」
「あら、私も大人よ」
「幾つになった?」
「あら、レディに歳は聞くものじゃないでしょ? 秘密と言いたいけど、もう二十七よ」
「まだまだ若いな。俺は四十二だ」
「そう言ってくれるのは先生だけよ。この店だと、ママを除けば一番年上よ。先生は何のために生きているの? 人に教えるため? そうなら、良いわね。生きる目的があって。私はときどき何のために生きていくのか分からなくなるの。ねえ、人は何のために生きるの? 恋して子供を作るため?」
 啓介は神妙な顔をする。
「何のだめか、そんなことは考えたことはないな。真面目にそんなことを考えている人はどのくらいいるのか? 俺には分からない。恋することが生きる目的か? そうかもしれないな。プラトンは“男と女はもともと一つだったが、それが神の怒りをかい、半分にされた。それゆえに互いが自分の半分を求めて旅をする”と言った。生物学的にいえば、あらゆる生物は子孫を残すために生きている。メスは強い子孫を残すために強いオスを求めて旅をする。オスも自分のDNAを宿してくれるメスを求め旅する」
「プラトンって、誰? 先生の友達?」
「知らないのか、ずいぶん昔、紀元前のギリシャの哲学者だ」
「遠すぎて想像がつかない。ところで人間も他の動物も一緒なの?」
「文化とか、そういうものからみれば大きく異なる。が、生物学的には一緒だ。それゆえ、DNAを残すために生きる」
 そう言った後で、啓介は“自分はどうだろう?”と思った。子孫を残す努力を今はしていない。
「鮭みたいね。鮭は卵を産み落としたら、直ぐに死んでしまうのでしょ? ところで、先生はDNAを残さないの?」
「面倒だから」と笑った。その笑いは歪んでいた。それに気づいた葉子はそれ以上突っ込まなかった。数年前、病気で恋人を失い、それから女性に対して興味を持たなくなったという噂を知っていたからである。
 啓介がバーに入ってから一時間が過ぎた。時計の針は十時を回ろうとしていた。
「そろそろ帰る」と言って彼は席を立った。
 葉子は、引き留めはしなかった。
 バーを出た。
葉子が見送った。
「今度、デートをしましょう。先生の携帯にメールを送るから」と言った。
 「良いよ」と安請け合いした。
数日後、本当にメールが届いた。『桜を一緒に観よう』と書かれていた。
 
桜の満開となった美しい月夜の晩にデートをした。
二人は公園を歩いた。
風もないのに、花びらが一枚、また一枚と散っている。
「人生は桜のようね」と葉子が独り言のように呟いた。
葉子の年寄りめいた表現に啓介は驚き、
「それはどういう意味だ?」は聞いた。
「ふと、父がそう言っていたのを思い出したの」
 葉子の父は彼女が幼い頃に病死した。そのことを啓介は誰かに聞いていたことを思い出した。それ以上は知らない。もっとも、それ以上知ろうと思ったこともなかったが。
「父は桜が好きだった。最期の日、散る桜を観て、“人生は桜のようだ。振り返るとあっという間だ”と呟いた。今でも忘れない」
 啓介は葉子の方を見た。いつも陽気でおしゃべりな葉子とは別の顔がそこにあった。
「そんなものか。俺には分からない。ただ、こんなふうに華やかな色が一瞬に消えてしまうのは実にもったいない気がする」
 葉子は笑った。
「どこまでいっても、現実的な人ね。夢なんか見ないでしょ? 私はいつも夢見ていた。そうそう、昔、父が誕生日にオルゴールを買ってくれたの。そのオルゴールには題名がついていて、“星に願いを”と書いてあった。そのオルゴールの音が大好きだった。いつもその音を聞いて、いろんな夢を見た」
 啓介は苦笑した。……夢か。夢はどこか遠くに捨ててきた。そうだ、どこか遠くに。昔、どんな夢を見ていただろう。それさえ、今となっては分からない。
「先生は賢い女と美人、どっちが好き?」と聞いた。
「美人でもなくてもいい。賢くなくてもいい。料理と洗濯と掃除が好きな女がいいな」
「家政婦さんみたいな人がいいんですね。私はどんなふうに見えますか?」
「お世辞にも、料理も洗濯も掃除も得意そうには見えない」
「はっきりいいますね」と葉子は笑った。
「こう見えても、掃除も洗濯も好きです。一度結婚しているから、料理だって、ある程度は作れます。そんなふうに見えない?」
「見えない」
「今度、食べてみます?」と聞いたが、啓介は答えなかった。
「先生は夜の仕事をしている人は嫌いですよね」と葉子は恐る恐る聞いた。
「どんな仕事をしていようが、人に迷惑をかけていなければいいと思う。でも、自分が住んでいる世界とずいぶんと違いような気がするね」
「見かけほど、派手じゃないの」と葉子は微笑んだが、啓介は見ていなかった。
作品名:旅に行こうか 作家名:楡井英夫