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ただ書く人
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左頬ノック

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 見慣れたクリーム色が薄い朱色に染まっていく様を、狭いベランダから見ながら陽子は耳を澄ませた。彼女が通うその中学校の校舎からは管楽器の音が聴こえ、彼女は吹奏楽部で活動している島弘樹の顔を思い浮かべた。校舎の外に設置されている非常階段で練習する弘樹のトロンボーンの音を聞きながら、その非常階段の下で彼を待つ。練習が終わった彼は少し格好つけてゆっくりと歩いて陽子のそばにやってきて、突然呼び出してしまったことや待たせてしまった謝罪をする。そして彼は照れて何度も言いよどみながら、勇気を出して陽子に好きだと伝える。陽子はどうするだろうか。わたしも好き。これからよろしく。抱きしめ合ったりするかもしれない。その場でキスをするかもしれない。それから手を握って帰る。手の汗は大丈夫だろうか。母に見られてしまったら困る。家の前までは来てくれなくてもいい。陽子は自分の空想に照れてはにかんだ。そして、その耳に聴こえる弘樹のトロンボーンの伸びやかな音に調和することを避けるように、陽子の心臓の鼓動はテンポを上げた。
 ふと自分の心音を感じて陽子がトロンボーンの音から意識をそらすと、ベランダの下、彼女の住むマンションの前にある広い県道から大型車の走行音が彼女の耳に響いた。そこから発せられた酸っぱいような臭いを感じて、陽子は鼻の奥に小さな痛みを覚えた。それらに自分の空想を邪魔をされたように感じた陽子は、少し鼻をすすって左手で自分の左頬を軽く叩いた。そうすると、少しだけ気分が変わって少しだけ元気になって少しだけ落ち着く。風のない九月の夕方はまだ暑く、背中に汗を感じて陽子は部屋の中に戻っていった。

 弘樹は吹奏楽部でまだ活動中だが、陽子が所属していたテニス部では彼女を含む三年生は夏を前に引退していた。このため、一年生の頃から毎日のようにテニス部で練習をしてきた陽子にとって、最近は暇な日々が続いていた。受験を控えているといってもまだ九月。毎日勉強をする必要はない。陽子の志望校は市内の公立高校の中では最もレベルが高いと言われるS高校だったが、学業優秀な彼女の普段の成績や模擬試験の結果からすれば問題なく合格するはずだ。陽子自身それをわかっていたし、普段から自宅で勉強をする習慣はないので、学校から帰ると漫画を読んだりテレビゲームをしたりと無為な時間を過ごしがちだった。
 陽子の友人たちも似たようなもので、学習塾に通う者もあったがそれとて毎日あるわけではない。夏休みの間は頻繁に、九月になってからも三度、友人たちの誰かしらの家に集まったり皆で繁華街に遊びに行ったりしていた。陽子の家は中学校から近いこともあって学校帰りに何人かで集まることが多く、先日も仲の良い友人たちが陽子の部屋に寄っていった。
 ふたり以上の女子中学生がいれば一度は恋愛の話が出てくるもので、その日の話題の中心もそれだった。それも、主に陽子の恋に関する話題がほとんどだった。
「島も陽子のことが好きだと思うよ」「告白しなよ」「島くんはどこの高校に行くの」「早くした方がいいよ」「待っていたらダメだって」
友人たちは自分たちが楽しみながら、無責任なことをその自覚も無しに次々と口にしていった。
「島って吹奏楽部だよね。ねえ、この音は島じゃないの」少し開けた窓から聞こえるトランペットの音に気づいた友人が言った。
「違うよ。あの人はトロンボーンだもの。これはトランペットでしょう」
その陽子の答えに「あの人だって」「トランペットかトロンボーンかなんてわからないよ」「島の音だけいつも聴いているの」などと友人たちが囃し立てた。陽子は否定しながらも、つい弘樹のトロンボーンの音色だけを選んで聴いているいつもの自分を思い起こして頬を赤らめた。そしてその日から、陽子は以前に増してトロンボーンの音だけに耳を澄ませるようになっていた。

 例え同じ教室にいても、ほんの数歩先の距離にいても、中学生の男女間の隔たりは意外と大きい。男兄弟も親しい男の友人もいない、もちろん誰かと交際したことなどない陽子にとって、そこには小さな勇気だけでは突き破ることができない透明な壁があるようだった。向こう側は見えているのに。同じクラスの女子生徒の中には、簡単に向こう側に行っている者もいた。それは簡単そうに見えるだけで、女子生徒は大きな勇気で壁を突き破ったのかもしれない。しかし、陽子にはそういった女子生徒が通行自由な扉を使って向こう側に行っているように思えていた。
 弘樹のことが気になるようになってから陽子はずっと扉を探していた。あるいは弘樹が扉を開けて、壁を突き破ってこちら側に来てくれることを期待していた。しかし、期待しているだけでは当然そんなことは起こらない。最近になって、陽子はようやく自分から壁の向こう側に行かなければならないこと、扉は自分で作らなければならないことがわかってきた。

 いつから好きになったのだろう。好きだと思い込んでいるだけかもしれない。一年生の時はよく知らなかった。去年は同じクラスだった。去年何か特別なことがあっただろうか。
「島くんって絶対陽子のことが好きだよね」
誰かが言ったあの言葉がきっかけだったのかもしれない。去年のクリスマスより前のことだった。なんとなくその気になって、少しの会話でも緊張するようになって、すぐに向こうから好きだと言ってくるものだと思い込んでいた。でもそれはいつまで経っても言われることはなく、以前はあったはずの少しの会話もなくなってしまった気がする。
 部活も違うし小学校も違う。以前はどうして会話があったのだろう。どんな会話をしていたのだろう。少し前のことなのに忘れてしまった。もしかして向こう側から扉を開けていてくれたのだろうか。それは何でもない当たり前のことだったのだろうか。あるいは大きな勇気を出していたのだろうか。
 自分から話しかけていたこともあったと思う。それなら去年は通行自由な扉があったのかもしれない。誰が作って誰が失くしたのだろう。そのままにしておいてくれればよかったのに。今はまた壁を突き破ってそこに扉を作らなければならない。

「吹奏楽部はいつまで三年生がいるの」
「日曜も部活があるの」
「どこの高校に行くつもりなの」
「国語ってどうやって勉強しているの」
「弟は元気」
「夏休みどこかに行ったの」
「昨日のドラマ見た」
その日の前日、陽子は自宅のベランダで弘樹にかけるべき言葉をいくつも考えていた。吹奏楽部のことを吹奏楽部の弘樹に聞くことは普通のことだろう。この時期に目指している高校を聞くのはよくあることだ。弘樹も陽子と同じように学業優秀で国語が特に得意だ。陽子はすぐに引退してしまったし男女の違いもあってほとんど話したことはないが、弘樹の弟は現在一年生のテニス部員だ。夏休みは終わって二週間も経っているからやめておこう。弘樹が普段テレビドラマを見ているかわからないからこれもやめようか。
作品名:左頬ノック 作家名:ただ書く人