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Le Diable

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 光に誘われてふらりと窓を見やれば、そこには柘榴がある。柘榴石の異名を持つ鉱石で模したこの細工物は、月下にあると有機的な生き物の一部を彷彿とさせる。最初に見つけたときも無機物らしからぬ輝きを放っていた──やはり月の明るい夜に。仕事からの帰り道、真円に近い月の傍にあった赤い星が水滴のように天球の壁を滑り落ちた。丁度、自分が歩く道の先を目指して。そうして家のごく近くまで辿り着いてみると、この柘榴が道の真ん中に転がっていたのである。星が墜ちたというよりも、堕胎した月の卵が地面に叩きつけられて赤く潰れていたように見えた。かの流星を知らなければ通りすぎたであろうが、いやに目を惹き付けて去り難く、拾い上げて見れば汚れのない精巧な品であったし、これも何かの縁だろう、と持ち帰った。
 そういえば、と首を傾げる。何故、警察に届けようとしなかったのだろう。金とガーネットを惜しみなく飾った実物大の柘榴だ、おそらくは高価な一品である。正当な持ち主は探しているに違いない。明日にでも、暁に頼んで交番に預けて貰った方が良いのではないか……。(今の自分に警察の扉を叩く勇気はない)
 ベッドから立ち上がり、月の窓辺に向かった。柘榴を手に取って光にかざす。見れば見るほど、写実的な彫金の見事な細工である。……が、掌の上を転がる塊は、拳ほどの大きさといい、紫がかった真紅の内部といい、人間の心臓を連想させる。美しいが、何処かしら異様な心地を抱かせるのだ。思えば、これを得る前はこんな奇怪不可解が自分の身に降りかかったことはなかった。直後から異変があったわけでもないが……。ひっくり返しつつ弄んでいると、気のせいだろうか、拾った頃に比べて実が増えているように感じた。否、増えたというよりも一粒一粒が大きくなった気配がある。粒の間から地金が覗いて金属光を反射する程度の余裕があったものが、一分の隙間もないほどぎっしりと詰まっているのだ。目の錯覚を疑いつつ更に観察してみると、ヘタのすぐ近くに親指の尖端ほどの刻印を発見した。
 ──こんな印があったか?
 とうに隅々まで目を巡らせていたはずだが、かつてにはなかった模様である。見落とすには大きすぎる。丸いメーカーロゴのような円形に配置された文字列、その内陣には星座に似た徴と数字が並んでいる。魔方陣を真似た系統のデザインだ。といっても、ゲームに使われるような図柄に比べてごく単純で、幾何学図形的な調和もない。だが、それが反って必要な素材だけを過不足なく記した実用のオカルティックな雰囲気を醸し出してもいる。
 工房の刻印にしては変な図柄だ、と思ったその時、床の軋む音がした。
「何をしている」
「ああ、悪い。起こしたか」
 背を穏やかな温もりが包み、亜熱帯の花に似た甘い香りが漂った。暁の空気に誘われて身体の奥深くに仄かな熱が宿り、自分を支える恋人の存在感に腹の強張りが緩んでいく。そうしてひとつの深い呼吸を得て初めて、いかに神経を張りつめていたかを気づいた。じわりと広がっていく寛ぎは、何か掴みどころのない、いっそ崩れて泣きたいような悲しみを覚えさせるものだった。
 暁は背後から肩を抱きつつ腕を伸ばし、その手に柘榴を取り上げた。
「……知っているか、柘榴というのは」 おもむろに囁きながら、骨張った長い指先に真紅の一粒を摘まむ。簡単にその石は地金から外れた。
「冥界の食物で、食うと現世に帰れなくなる」
 そうして耳元に古代の神話を吹きかけて戯れたかと思うと、取った石を自らの口へ運ぶ。
「おい。それは本物じゃあ……」
 制止を受け流し、暁はそれを食べてしまった。何? と漆黒の眼差しを寄越して微笑みかける。
 ──何だ……?
 心の内を微かな印象が過ぎ去った。
 蒼白の月光に晒された顔のふたつの窪みは空洞の闇ほどに深く、見る者を眩暈の果てに吸い込む。金属の皮をもつ柘榴が、彼の手に黄金色の炎を灯してしっくりと収まっている。その姿、暁と柘榴の組合せが、鍵穴にぴったりと合う鍵を差し込んだかのようにカチリと小さな音を立てた。……と同時に、意識の内側に深い溝が裂ける。何かが無い。記憶が抜け落ちているのは、夢中遊行の間だけではない。
「お前、いつから俺と居たっけ……?」
 我知らず呟きが洩れると、突然、目の前の存在が不確かなものに摺り替わった。始まりに覚えがない。暁とどのように付き合い始めたのか、いつから一緒に住んでいるのか、そもそも何処で出会ったのか……。
 ──誰だ、これは。否、知っている。暁という名の、同居人で自分の恋人だ。
 ──本当に?
 虚をついて噴き出した混乱を察したのか否か、暁は何も答えずに柘榴を一口囓ると、疑いを発した唇を優しく塞いだ。深く吸い込んだ花の香りが精神の根元に絡みつき、思考を進めようとする言葉の繋ぎ目を悉く奪いながら、それらの全てを陶酔へと沈ませていく。羽毛に包まれたような快さに絡めとられて抗いもせず、全身の細胞が高揚感と引き換えに自らの意思を放棄していった。ふっと柘榴の粒が口移され、舌の上で弾ける。驚いて咄嗟に暁の胸を押し、離れようとした。だが、彼は抱き寄せる腕を緩めはしなかった。寧ろ、逃すまいとその力を込めた。
 ガーネットと思った粒は、確かに本物の実の食感だったのだ。いや、それよりも、この錆びた鉄の味は──。
「どうだ。自分の手で熟させた果実は、美味いだろう」
 暁の片目が妖しく光を放った。赤い、堕ちた星の色だった。


[作中の「Robert le Diable(邦題:悪魔のロベール)」の仏語歌詞はWikipédiaから引用しました。:作者]
作品名:Le Diable 作家名:葡萄