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漂礫 五、

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五、


 日が暮れて、道が見えなくなった。
 立ち止り、朝が来るまでここで休もうと言うと、見えなくなった道の先を指さしながら風が言った。
「この先に、民家がある」
「なぜ分かる」
「匂いがする。汁を炊いている」
 風が言う『匂い』を確かめてみたが何も分からない。風が歩き出したので、ついて行くことにした。確かに、明かりが見えた。
 戸を叩き、「旅の者だが、一宿借りられないだろうか」と言った。
 返事はなかった。物騒なこともある。簡単には戸を開けてくれないのだろう。風が声を出した。
「夫婦(めおと)でございます。道に迷ってしまい。どうかお助け下さい」
 しばらくして、戸が開いた。女を連れていると便利なこともある。
 小芋と菜を炊いた汁を出してくれた。
 こんな山の中だから、これくらいの物しかないよ。
 そう言った女の口元には薄く紅がひいてあった。あと、娘が一人いた。
「申し訳ない。日が暮れる前に山を出ようとしていたのだが」
「この山道は険しいから、案外、山を出るのに時間がかかるものだからね」
 小芋を食べた。
 紅を引いた女は山の中に不相応な美しい女だったが、よく見ると、それなりに年を取っている。紅や白粉で若く見える。
「口がきけなくて」
 女が言った。
 何のことか、しばらく考えて、ずっと何も言わない娘の顔を見た。
「娘はお鈴。耳は聞こえているんだけどね」
「そうか、それは難儀だな」
 風が、お鈴のお椀に、自分のお椀から小芋を一つ移した。
 鍋の汁が無くなると、女は着替えて山の中の小屋を出て行った。
 適当にお鈴と寝ていてくださいな。と言った。
 なるほど、紅を引き白粉もつけるはずだ。
 「道が見えぬほど暗い。気を付けて」
 俺の言葉に、軽く会釈を返して出て行った。
 お鈴は風に草笛を吹いた。「上手だね」風が言うと、うれしいのかいつまでも草笛を吹いていた。
 明け方近くに女が帰ってきた。寝たふりをしたまま様子を見ていた。風の顔を覗き込み、次に俺の顔も覗き込んできた。おそらく風も寝たふりをしているはずだ。女は俺が寝ていると思いこんだのか、懐を探り何も入っていないことを確認すると、今度は風の懐も探った。
 朝になると、女は飯を出してくれた。
「迷惑でなければ、」と俺は切り出した。「世話になった礼に、野鳥でも捕ってきて今日の晩飯にでもしようと思うが」
「旅の途中ではないのかい」
 女は風に気を遣いながら聞いた。風が答えた。「急がないから」
 それを聞いたお鈴の顔が明るくなった。
「久しぶりのご馳走、お昼のうちに山を下りてお野菜をいただいてこようか」
 女は口元を押さえて笑った。紅は取れていた。

 女は酒も買ってきた。
 キジを仕留めて小屋へ帰ってくると、風とお鈴が風呂の用意をしていて、「武蔵は汚れているから風呂の順番は一番最後だ」と言われた。お鈴は笑っていた。
 野菜とキジを煮込み酒を飲んだ。
「旅に出たい」
 女が酔って言った。「こんな山の中で、じっとしていたって面白いことなんて何もない」
 酒を呷ってため息をつく。「逃げ出したい」
「やだやだ、愚痴を聞いてちゃ、お酒が不味くなるね」
 女は酔って赤くなった顔を袖で拭った。
 風はお鈴の隣で添い寝した。お鈴がそれを望んだのだろう。口が利けなくても、風にはお鈴の言いたいことが分かるらしい。お鈴は風の手を握ったまま眠っていた。
 小屋を出た。すぐ近くにある大きな木の根元に女が座っていた。
 大きな丸い月が明るい。
 すべてを照らしていた。
「昨日と大違いだ。よく道が見える」
 俺の声に女が振り返った。「この月が昨日も出ていたら、今日はこんなに楽しくなかったね」女が言った。
 女の隣に座り、女が飲んでいる酒を器に注いでもらった。
「こんなに明るく道が見える。だが、昨日は確かに何も見えないほど真っ暗だった。そんなものだ」
「道のことかい」
「道のことだ」
「旅を続けていれば、いろんな道が見えるんだろうね」
「見える。迷子になる道もある。見たくない道も見える。何も見えないこともあれば、見えないふりをすることも、ある」
 どこか遠くで獣の声がした。鳥が大勢で飛び立つ音もした。
「いつも、」女が杯の酒を飲む。「こんなに月が明るければよいのに」言った。
「うまい酒だ。高かっただろう」
 女が頷く。「たまには、いいさ。一人じゃ飲めないだろ」もう一度、俺の器に酒を注ぐ。
「あんたの女房、お鈴が懐いちまったね。珍しいよ。あの子、あんなに笑った顔見たことがない」「女房じゃない」「そんな気がしていた。訳がありそうな女だね」「よく知らぬ」
 高い声で、女が笑った。「他人のことに興味がないんだね」
「そんなことはない。たとえば、」酒を呷り、女を指した。「お前の亭主は侍だったのだろう」
 俺の言葉に女はまた笑った。「誰だって分かるさ。あんな小屋の中に不釣り合いな刀が飾ってあったからだろ」
「よい刀だ」「いい男だったさ」「戦で死んだか」
 女は、手にした杯の酒に月を写した。
 欠けた杯をゆっくり動かすと、手の中に小さな波が起こり黄金に輝く月が揺れる。
「人は、」
 女は手の中に写した月を眺めながら続けた。「どんな時に死ぬんだい」
 刀を抜いた。
 刀身に月光がきらめき大木の葉を明るく照らした。
「その刀、どれだけ悪党の命を吸い込んだのさ」
「悪党だけとは限らない」「これはこれは、私の見る目も落ちたもんだ。善人でも斬ってしまうようには見えなかった」
「事の善悪も判らぬ俺に、人の良し悪しが分かるわけがない」
「人の良し悪しなんて、仏様でも分からないさ。私にとって武蔵は悪い男に見えない。だけど、あんたが斬った男にも家族がいて、その子供はあんたのことを悪人だと言うだろう。みんな、一皮むけば悪人の顔と善人の顔の両方を持っているんだよ。あんたから見れば善人、私から見れば悪人。同じ一人の人間がどっちにも見えるんだよ」
 大木に身を任せて、月の光を浴びる刀身を眺めながら、鬼だ畜生だと陰口を囁かれていた子供のころを思い出した。


 父に剣術を教わった。藩の剣術指南役であったこともあり、厳格な父親だった。
 物心ついたころには木刀を握らされており、父に稽古を付けられていた。疲れてへたり込むと容赦なく打たれた。泣いても拗ねても許されることのない稽古が毎日続いた。
 そして、常に味方だった優しい母親が家を出て行った。
 厳格な父がなぜ優しかった母を離縁したのか分からない。夜、稽古で痛んだ体をさすりながら一緒に泣いてくれる母がいなくなった。
 ある日、近くに住む年上の悪童が言った。「少しばかり剣術ができるからと生意気だ」
 組みかかった。相手のほうが背も高く太っていた。だが簡単に転がった。馬乗りになり殴りつけた。あまりに簡単に組み敷かれてしまうことにも、そして簡単に「許してくれ」と乞うことにも苛立ちを覚えた。大人たちが集まってきて大人数で引きはがされるまで殴り続けた。その夜は、父に死を覚悟するまで打たれた。
 背も高くなり、稽古中に泣くこともなくなり、俺は朝から屋敷を抜けだしだ。
作品名:漂礫 五、 作家名:子龍