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Twinkle Tremble Tinseltown 5

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 パニックの余韻が冷め切ってもいないのに、追い討ちをかけるよう滅多なことで耳にしない呼び名を使われたのだからたまらない。思わず悲鳴を上げそうになった。一瞬で握り締められた膝の上の拳から力を抜けぬまま、キルケアはぎこちなく視線を正面に戻した。意識を支配する顔は、今までと打って変わってどこまでも正気だった。黒く、一見柔和そうな瞳を、恐らく今回ばかりは本心から緩めて、じっと見つめてくる。彼女にすらこんな耐え難い目つきで見つめられたことはない。出かけるまえ何とはなしに掴んだサングラスだったが、思わぬところで効果を発揮してくれた。眉根の皺とまではいかないものの、少なくとも引き攣った目元は黒いレンズに遮蔽され、それでもばれないかと怯えて続けている。
「やつれたって言うのか。ちゃんと寝てる? 飯は? ワーカーホリック?」
「言うな」
 おまえが、と口にしかけたのを辛うじて飲み込む。
「『宿泊料』は馬鹿にならないんだ」
「ごめんってば」
 情けない、人好きのする笑顔をリーは表情の隅から隅まで配置させた。
「悪いと思ってる」
「本当に分かってるのか」
 我慢できず、キルケアは感情を僅かにだが声へ乗せてしまった。
「あそこを追い出されたらもう行く場所がないんだぞ。良くて前みたいなえげつない施設、悪くて」
「そんなヘマしないさ」
「今だってそんな呑気に」
 寒々しさを覚えるほどの薄着を顎で示されても、先ほどまで浮かべていた反省の色は戻ってこない。リーは肩を竦め、開いた穴から指を突っ込んで膝を掻いた。
「後でちゃんと持ち主に返しておくよ。こんなのしか見つからなくて。頭の悪いBボーイみたいだろ?」
「窃盗でも十分まずい」
「僕は小さい頃からリーボックが欲しかったんだ。あれじゃないなら、裸足で歩いたほうがマシだ」
 突き出して見せた足が何にも包まれていないことに気付き、キルケアは思わず額を抑えていた。
「買ってやるよ」
「いらない。帰ったらあるし」
「何で脱いできた」
「最初から履いてない。隠してある、盗まれると困るから」
 誰に、と訊ねられる前に、リーは身を乗り出して声をひそめた。
「気付いたんだ。デイルームのアルファベットパズル……Wの文字が、羨ましそうに僕の足元をちらちら見てるのを」
 伸ばされた手がもみ上げに触れたかと思うと、次の瞬間には世界が刺すように白ける。眼を細めることで、キルケアは至近距離から見据える眼差しと辛うじて対峙することができた。
「僕も何かあげることが出来たらいいんだけど」
 サングラスが真っ赤に汚れた皿の上に落下し、硬い音を立てる。
「僕は何も持ってない。奪うことしか能がない」
 生気のない、真っ黒な空洞のような瞳孔が、それでも何かの感情で揺れていると思ったのは兄の贔屓目かもしれないし、理性を持った人類の一人としてまだ彼を信じたいと思っているせいかもしれなかった。
「いらないよ」
 恐怖と悲しみが入り交じった不可解な感情が胸の中でとぐろを巻く。
「何も求めちゃいない。俺はただ」
 上擦った声が二人の鼻先で虚しく広がり、空気に溶けた。リーの顔が、今にもがらがらと音を立てて崩壊しそうな脆さで笑みを作る。
「ひどいな」
 飛び退くようにして身を離し、兄に触れかけていた手を体の脇にぴったりとくっ付ける。そのまま俯き、小声で何事か呟いてから、リーはもう一度確固たる態度でキルケアを見つめた。
「僕は兄さんを愛してるのに」
「ああ、ああ、俺も愛してるよ」
 どっと肩へのしかかって来た疲労に耐え切れず、邪険を丸出しにして手を振る。
「殺人鬼だろうが何だろうが、たった一人の家族なんだからな」
「失礼だな。証拠もないのに決め付けるなよ」
 べったりと油脂のついたフレームをナプキンで拭いているキルケアは、それ以上何も言わなかった。


「また来月ね」
「大丈夫なのか、そんな頻繁に」
「どんな要塞にも穴はあるんだよ」
 当たり前の話だが、会計はいつもキルケア持ちだった。
 たまには奢れなんて冗談でも言ったら、次の時にはポケット一杯の紙幣ないしは知らない人間のカードを持って来ることは目に見えていた。生活保護はほとんどが入所料金に消え、残りも引き出すには後見人の共同署名がいるような男が、アメックスのプラチナカードを持って歩くなんてあり得ないという常識を、リーは未だ理解できていないようだった。義務教育機関の代わりに鑑別所や施設、裁判所へばかり通っていたつけは、本来の性質に加えて彼を幼さの中に閉じ込めている。
「あんまり無茶はやめろよ」
「会いたくないってこと?」
 違う、と言うに言えず、キルケアは再びサングラスを顔に戻した。患者には根気よい寄り添いと愛情が必要だとは大学でも学んだ。しかしリーと昼食を取るたび、新聞の片隅に失踪者の記事が出ることも事実なのだ。ノイローゼと言われてしまえばそれまでだった。だが過去を鑑みれば、何を疑っても不思議ではない。そして多方面に渡る良心の呵責にのた打ちまわる兄を知りながら、リーはなおも意地悪な質問を繰り返すのだ。
「兄貴?」
「馬鹿なことはするな」
 伝票を掴み、キルケアは呻くように言った。
「お前が心配なんだ」
 苦し紛れの言葉ではあったが、それは紛れもない本心だった。目を瞠ったリーは、次の瞬間、明らかな動揺を含んだ淡い笑みを浮かべた。
「やだな、まったく」
 ぶっきらぼうな照れ隠しでも構わない。こんな普通の兄弟ごっこに、キルケアは昔から憧れていた。そしてごっこ遊びは所詮紛い物で、理想などありはしないことも知っている。
 少しでも平穏を長引かせる鍵は、自らの肩へ一方的に掛かっている。今日も帰ったら予約された手術を済ませ、金をふっかけなければならない。いつの間にか消えていた後ろ姿を探す真似はしない。これ以上気を割くのはあまりにも辛過ぎた。
 嘘つきの弟はともかく、自らの「愛している」とてひどく形式臭い。ごっこなんて。冷めた感情と胸をえぐる情の板挟みから何とか逃げ出そうと、キルケアは馬鹿みたいに高い勘定書きへ視線を落とした。