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フォックスギャップの亡霊

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07.光に焦がれて



 そうとも、間違いない。提示されたダイヤの9を見下ろし、レナードは内心呟いた。俺はタフガイだ。心配することなんか何もありはしない。
 彼がむせ返りそうなピンク色のシートに腰を下ろすよりも早く、四つ離れた席に座ったオリヴィエは忙しなくチップをアンティに投げ込んでいた。新たに両替された1万ドル分のチップが整然と控えていたのは一時間前の話。既にラックの中身は3分の2程に減っている。
 ダンは端整な顔を心持伏せ気味にして、カードを配っていく。勿論会話は絶やさない。その点で言えば彼は間違いなくプロだった。どこからお越しで? サンフランシスコ。今年のジャイアンツはティム・リンスカムの快進撃だ。ポーカーフェイスとはまさしくこのことで、口元には心なしか微笑みすら浮かんでいた。
 カードを捲る。クイーンと5のツーペア。焦らしやがって。オリヴィエは100ドルのアンティ、例えノーペアであってもレイズしろと言ってあるので、機械的に黒いチップを2枚追加している。苛立ちはまだ飲み込むのに苦労しない。レナードもチップを掴み出した。最初に賭けた300ドルへ更に2倍。合わせて900ドル。律儀なオリヴィエとは違い、ジャックポットへは投資していない。
 ダンが伏せていた自らのカードを返した。エースもキングも不在、ペアすらなし。お預け。僅かな配当と共に返って来たチップを引き寄せ、レナードは一度舌を鳴らした。当然、ディーラーに聞こえるような大きさで。
 合図は決まっていた。ダンは何もないレナードの薬指を見て言う。「奥様はお部屋で?」待てば待つほど時間は長く感じられた。ただでも客が少ないというのに、一つのテーブルへしがみついているのは気が滅入る。先ほど両替に来たピットボスも、胡散臭そうな顔でダンの手元をねめ回していた。頭は鈍そうだが頑固な顔立ち、今は視線を逸らし、隣のテーブルを見張っている。


 ここで負けるつもりはなかった。ムショ帰りの常で金はない。前科を背負った時点で軍時代の伝も通用せず、知り合いは生まれ故郷のゴロツキだけ。揃いも揃ってその日暮し、ギャングとすら言えない半端者ばかりだった。
 最近フェニックスのクラブでも掛かっていないような安っぽいテクノを意識の彼方へ押しやり、25万ドルの使い方を考えてみる。カジノでならあっという間に失う額だ。生活に持ち込めば、派手に札びらを切っても3年は余裕で遊び暮らせる。使い切った頃は恐らく30を越えているだろう。余裕は幾らでもある。
 2週間より先の人生を考えるなんていつぶりの話だろうか。レナードは素直に驚いていた。そして同時に気付いたのは、2週間後が全くの空白であること。
 無論、考えていなかったというのは正確な答えではない。面倒くさくなって途中放棄を繰り返していただけの話だった。それで十分生きていくことができた。特に刑務所の中では、今の瞬間に意識を張り巡らせていないと、研いだスプーンで首を滅多刺しにされる。これに関しては自らが用いた手段なので間違いない。
 オリヴィエは整形するなどと馬鹿な事を言っているし、ダンはその性格を鑑みるに貯金でもするのだろう。しみったれたクソ野郎達。
 例えば即金でハマーを買い――もちろんH1だ、中古でも構わない――フェニックスに乗り付ける。プールつきのアパートに引っ越す。一日ビールばかり飲んで過ごす。何かに投資してみる。
 目前にある、本来ならば楽しいことにそれほど興味が湧かないわけを深く考える余裕はない。ダンが3日前から溜めていたような息を吐き出した。
「そういえば、奥様は?」
 オリヴィエが一瞬動きを止める。ピットボスは相変わらず余所見。
 わざとらしく、レナードはマットの上に置かれていたグラスを取り上げた。飲むつもりのなかったワイルドターキーのロックは氷も溶けかけ味気ない。まだ雫がついたままの手で100ドルチップを2枚つまみ出し、アンティへ。ついでにジャックポットにも。オリヴィエは1枚と、同じくジャックポット。子供のように、テーブルの縁を覆うクッションへ腹をぴったりと押し付けている。投入口のランプが点滅し、頭上の電光掲示板がサイドベットの加算を知らせる。見向きもしないレナードが、まだ明後日を確認しているピットボスを横目で睨んだのを確認し、ダンは機械と身体を挟んだ対面にあるシュー(カードケース)へ右手を伸ばした。女の肌を抓るような指先の動き。模範的な滑らかさで、ピンク色も目に痛いマットの上へカードを滑らせる。この時も徹底した営業スマイル。伸びた手の甲が走るライトに晒され青白く浮かび上がる。
「部屋で寝てる」
 短く言い捨て、身を乗り出す。まずカードの端を指先で捻った。ハートのジャックと7、スペードの6、ダイヤの6と4と3。レナードは配られたカードを出来る限り記憶し続けていた。先ほどのシャッフル以降、登場回数が最も少ないのはハート。そして絵札。心臓が高鳴る。ポップなネオンが爆発し、残ったのは真っ白な光と無限の可能性。自らの手札を取り上げる。カードが僅かに汗ばんだ掌へ吸い付いた。
 ハートの7とスペードの6、ダイヤの6と4と3。再び元の位置へ戻し、待つ。
 今回はオリヴィエがキングと4のツーペアを出し勝利。回収したカードはシャッフルマシンにぶち込まれる。機械の音が響くその間、テーブルを囲む誰も素人臭く辺りを見回したりなどしない。

 ラスベガスでは考えられないことだが、ペッパーミルのポーカー・ディーラーは、1ゲームが終わるごとに全てのデックをシャッフルマシンへ詰め込まない。2、3人のゲームならば、用いたカードのみをマシンに入れ、再びシューへ戻してしまうのだ。フルシャッフルは5回に1度。そして今が先ほどから数え2回目のゲーム。

 再びグラスを取り上げ、レナードは乾きつつある喉を潤した。やはり薄い。だがほんの少しのアルコールでも、頭の中に残った白い光を維持することは可能だ。もう既に消えかけているにも関わらず、レナードはそう思い込もうとした。思い込み、満足すれば後は事実など関係ない。今すべきことに集中できる。そうやって彼は生き抜いてきたし、今回も生き抜くつもりだった。