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フォックスギャップの亡霊

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03.ただよう紫煙



 一服吸い込んで吐き出すまでの間隔は1秒未満。あんな呑み方では味もクソもないに違いない。未練を残したまま押し出された紫煙はその瞬間こそ唇と連動するが、後は換気扇の回った部屋にゆっくりと広がり薄まっていった。残るのはきついメンソールの匂い。肌寒さ。女のように二本指で煙草を摘まみ、ダンは落ち着きなく部屋の中を歩き回っていた。
「無理だ。勘弁しろよ」
「あと1回だ」
 咥えたマルボロライトを口から離してから、レナードは悠然と言い放った。居間と呼ばれている部屋は、男3人を投げ込むことで外よりも鬱陶しい状態が続いている。このうえせかせか動かれたらたまらない。落ち着けよと宥めても、ダンは見開いた目で無言の焦燥を表現するだけだった。仕方なく、歪んでもいない壁のアフリカ風版画を弄っている手は見ないふりで話を進めていく。
「これまでで入ったのが、大体33万ドル。週に1回ずつ回して、一応変装の」
 隣に腰掛けていたオリヴィエがくすくすと喉を震わせる。彼がローテーブルに乗せてあった一口チョコレートを飲み込んだのは三度目。話を理解しているのかいないのか分からなかったが、とりあえずテレビをつけたり余計なことはしないので今まで無視してきた。
「レナードの口髭、あれひどかったよね。ダンプカーに轢かれたバート・レイノルズみたいで」
「黙れ。とにかく面は割れてない」
 頭を小突き、一向に合わせようとしないダンの眼をじっと見つめる。蛇に睨まれた蛙とはこのことで、逃げ回っていた茶色の大きな瞳は、注がれる視線に引っかかると吸い寄せられるように一点へ定まった。年上だろうがキーマンだろうが、力が及ぶのならば行使してねじ伏せる。その結果、彼のベッドの下には33万ドルの入ったスポーツバッグが押し込まれていた。
「次で50を越える」
 軽く息を詰めたものの、ダンの表情にはまだ半分ほど疑いが残っている。畳み掛けるようオリヴィエも身を乗り出した。
「本当だよ。33万ってのは。昨日の晩数えたから」
「一発の当たりで17万ドルなんて」
 振り回された腕の後を、細い煙が掠れながら追いかける。
「マジでヤバいんだよ。この2回でも十分査定が下がりそうだってのに……ピットボスのエリスがそろそろ怪しんでる」
「サベイランス(監視)には?」
「引っかかってたら今頃こんな話してられるか。でもここ2、3日、エリス子飼いのチェンジボーイが周りをうろうろしてやりにくいったら」
「正直に言えよ、ダン」
 ふうっと肺一杯の空気を吐き出す。覆われた靄で向き合った顔は見えない。だがその表情が引き締まり、きちんと話を待ち受けていることは見て取ることができた。
「俺のスイッチ(カードを入れ替えること)はクソか?」
「まあ通用するんじゃないか。特別に監視されてる訳じゃなかったら」
 相変わらず囚われたままの眼は、嘘をついているようには見えない。
「パーム(カードを手に隠す技術)も悪くない」
 そりゃそうだろうさ。返答に満足するでもなく、レナードは人差し指で灰を叩いた。何せ予習復習の時間は3年7ヶ月もあったのだ。
「じゃあオリーがグズか。いや、こればっかりは当たってるかもな」
「余計なことなんか何もしてないじゃないか」
 チョコレートを口に入れたまま、オリヴィエは甲高く抗議した。
「前だってちゃんと……そう、『卒業祝いで西海岸2週間の旅に連れてきてもらった弟と引率の兄』だっけ? ちゃんとやったろ」
「ビビって飲んでばっかりじゃねえか。あとお前、サイドベットの意味分かってんのか。あれは1ドルずつしかベットできないって何度言や分かるんだ、アホみたいにじゃらじゃら撒きやがって」
「逆に素人臭いほうが良いってのもあるだろ。今更もういい」
 今にも噛み合いを始めそうな間に割って入るよう、ダンが一歩こちらに歩みを寄せた。回り続ける換気扇のお陰で、煙まで一緒になって近付いてくる。
「分かってるよ、あんたらの手に問題があるわけじゃないんだ。問題があるとすれば」
 零れた溜息は、湿気に混じって床を滑っていく。
「存在そのものさ」
「それもすぐいなくなるさ。後たった1回のヤマで」
「怪しいもんだけどな」
「保証する。50万を越えたら金を山分けして解散さ。カート・コバーンが死んだ後のニルヴァーナみたいにあっさり」
「フー・ファイターズになって帰ってきたら承知しないぞ」
「大丈夫だって」
 細く開いた口角から、ふわりと紫煙の残りが溢れ出る。真横へ引っ張るようにして、レナードは唇を笑みの形に歪めた。だがけぶった中にも隠せないほど、その目元は冷たく凍っている。それ以上の下らない駄々は許さない。最初から決められていたことを確認しているだけの話。本当はこの部屋にいる誰しもが知っていたことだ。
「何せ今回は、切り札がいる。金に目が眩んだクソッタレで、だが腕は一流の、最高にクールなディーラーだ」
 これは余興だとレナードは考えていた。煮詰まった頭では上手く行くものも失敗する。爪を立てたり鳴き声を上げたり、適当に力が抜けたなら、また首輪を引けば良い。半分ほどになった煙草をテーブル上の灰皿で揉み潰す。一際濃い白と共に、さっき追加されたチョコレートの包み紙へ黒い穴が開き、染み入るように丸く広がった。
「そうだろ、ダン。お前はクールな奴だろ?」
 しばらくの間、ダンは無言で目を伏せていた。視線が向かっているのは灰皿か、それとも自らの部屋で我が物顔に構えたレナードの靴か。匂いに違わずひょろひょろと細い線が手挟んだものから上がり、今にも消えそうになっている。指へ橙色の火種が触れそうだと言うのに、熱さすら感じていないらしい。
「50万ドルか」
 脇腹に回っていた肘を握り締めたとき、ぎりぎりまで白く溜まっていた灰が、ぽとりと床に落ちた。だが彼は気にすることなく、テーブルへと身を寄せた。
「後1回だな」
 投げ入れられた煙草はもう殆どフィルターを残すばかりで、か細い紫煙は無骨に燻っていたマルボロライトの白煙に巻き込まれ、すぐさま見えなくなった。残ったのは腹が立つほど強いハッカの香りだけ。
「ああ」
 鼻を鳴らしてから、レナードはしっかり頷いた。
「それでいい。それでこそスーパークールさ」