小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
セールス・マン
セールス・マン
novelistID. 165
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

フォックスギャップの亡霊

INDEX|1ページ/10ページ|

次のページ
 

01.雨と銃声



 軒から雫が滴る音で眼が覚めるほど苦痛なことはない。重い身体を無理やりベッドから引き剥がし、レナードは目をしょぼつかせた。昨晩リノ全域を襲った鬱陶しいほどの熱気は雨天の予兆だったのか。この季節に珍しいことだ。フェニックス生まれの彼は、西海岸の天気についてなら熟知していた。


 ニュージャージー州立刑務所を出たのが9ヶ月前。2ヵ月後、飼っているブルテリアに代わり保護監察官の中年女を口でいかせた代償で、彼は見事州外脱出を成し遂げた。3年7ヶ月の刑期は重すぎる。カジノから出てくる客の後をつけ、コルトを突きつけた程度にしては。大使館を守るため、韓国へ3年間派兵されたにしては。退役してすぐエッソのスタンドを叩いて一人撃ち殺したのが響いていたのだろうか。それとも公選弁護士がごねなかったのがまずかったのだろうか。どちらにしろ、長いロスの間に女に逃げられ、唯一の身内である父が心臓発作で死んだ。どちらも取り立てて悲しいとは思わなかった。


 ようやく馴染んできたアパートはトイレの便座が存在せず、よく詰まることを除けば家賃相応だった。前の住人が残したかび臭いマットレスがおまけだった。今は汗で湿っている。昨晩寝たのは3時頃。約7時間分の分泌液プラス湿気。
 樋を付ける手間を怠った設計者の仕業で、雨は横殴りでもないのに擦りガラスを濡らしている。雫はもう何時間垂れているのか、汚れた窓はいつもより少しだけ綺麗で透明だった。外に広がる世界は灰色一辺倒で普段よりも明るく、部屋の中を照らさないくせにやたらと眩しかった。


 欠伸を一つ漏らして腹を掻いた瞬間に、ささやかな衝突音と軋む蝶番の音。不規則に刻まれる粒の音より何もなかった部屋には、結構な衝撃だった。思わず傍のチェストに手を伸ばす。勢いがよすぎて、並べていたスタウトの瓶が横倒しになった。
 引き出しに入っていたリボルバーがもたらす感傷も忘れ――唯一の遺品に隠された父のメッセージを、レナードは未だ解読できずにいる――臨戦態勢に入った身体は、次の瞬間に脱力する。その隙を突いて襲ってきたのは怒りだった。結局銃を掴みなおし、床へ足をつける。スタウトの瓶口から零れる泡が、黙ってカーペットに染みを作っていた。


 下着一枚の姿で足音を殺すのはさぞかし無様だろうとは分かっている。だがジャック・バウアーよろしく顔の脇で銃を構えると、わざとらしくゆっくりした歩みで標的への距離を詰めていった。
 既に動きを止めたクローゼットの扉は、差し込む光に舐められて傷や汚れを上手くぼかしていた。折れた羽板にそっと指を掛ける。猶予を与える気はなかった。銃を握りなおし、思い切り引く。


 『警察だ!』と叫ぼうと考えていたが、結局やめる。枕を抱えて丸くなっているオリヴィエの間抜け面を見たら、馬鹿らしくなった。光は確かに差し込んでいるにも関わらず目覚める気はないらしい。太腿を踵で蹴ってみても小さく呻くだけで、すぐさま寝息に規則性が戻ってくる。


 オリヴィエがアパートへ転がり込んできたのは一ヶ月と少し前だが、実際の付き合いはもう少し長い。下手くそな偽造小切手をブルーミングテールズに持っていって弾かれ、挙句の果て逃走中に老婆を突き倒して死なせれば懲役2年になるのだとレナードが知ったのは彼のお陰だった。あと数ヶ月早く行動を起こしていれば慣れた少年刑務所行きだった青年は、自らの位置付けをちゃんと心得ていた。尻を貸す以外大抵の命令は聞いたし、すぐ拗ねるところが高校生の時トラックに轢かれて死んだ弟を思い起こさせる。
 ちょっとした感傷は出所後の彼に、欲しがっていたトロピカルなチョコレートバーに葉書を添えてしまう失態を犯させた。まさか消印を見て押しかけてくるなど誰が考えるだろう。今回のルームシェアは一方的なものだったが、その分レナードは刑務所へいた時以上に青年をこき使っていた。


 やたらめったら放り込まれた品物の間へ上手にスペースを作り、オリヴィエは鼠の糞とかっぱらってきたナイキの靴に囲まれて惰眠を貪っていた。家主の服だけはちゃんとハンガーへ吊るしてあるところが憎たらしい。浮いた肋骨と細長い手足はただでも子供なのに、今のように枕へ顎を埋め、唇で軽く食んでいる姿はハイスクールの生徒よりもあどけなかった。しとしとの合間にぽとりと重い音。雨は止まない。狭く、汚く、薄暗い場所で蹲る姿が身動き一つしないのと同様、レナードはただぼんやりとその場に立ち尽くし、クローゼットの中を見下ろしていた。頭が鈍く警戒心の欠片も持ち合わせないクソガキ。レナードを含むアイリッシュ・グループへおべっかを使っていなかったら、あっという間に強姦魔の餌食となっていただろう。下らない想像。珍しくもない現象。だが徹底したホモ嫌いを自認する彼にとっては、許されざるべきことだった。


 走った虫唾は見当違いの方向へ。視線の先、無防備な眉間へゆっくりと銃口を定める。濁ったような色の肌全体がクローゼットの闇に包まれて、存在を曖昧にしている。不特定ものを撃ち殺すことは簡単だ。親指でゆっくりと撃鉄を下ろす。かちんと言う音が雨音の上で大きく響き、心臓が跳ね上がる。
 何故これほどまでにわくわくしているのか、さっぱり分からない。心の中で蟠っている真っ黒な澱を指で掬い上げ、弄ぶ心持。不愉快ではない。そして止まらない。
 引金へ指を掛ける時点になって、標的はようやく不穏な空気を感じ取ったらしい。軽く閉じられていた薄い瞼が震え、むずかる鼻息が枕カバーへ吸い込まれる。人差し指の腹が興奮で熱い。それなのに分厚い皮膚は、金属へ刻まれた細かい傷と、指紋が触れ合う違和感まではっきりと感知することが出来る。気付けば唇だけがにやにやと笑っていた。


 窓の桟とコンクリートを打つ雨だれが、引き伸ばされるようにして遠くなっていく。音が完全に消えた瞬間、レナードは拳銃が出来る限り額へ近付くよう腕をめい一杯伸ばした。
「Bang」
 唇の先でそう呟けば、今度こそゆっくりと瞼が持ち上がった。黒い瞳は寝起きの癖に乾き、光がない。そこへ映る最初のものが自らの突きつけた銃口だと認識した途端、弾ける様に音が戻ってきた。