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現代異聞・第一夜『覗き込む女』

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■ 転 ■


 ──走っている。
 ただひたすらに、体力の分配などまるで考えずに疾走する。通り過ぎる窓の外は驚く程暗い──森閑とした山々と揺らめき蠢く木々が辺り一帯を取り囲み、嫌らしい冷気が砕けた窓硝子の向こうから吹き込んでくる。限界を訴える肺に尚も酸素を取り込みながら、俺はがむしゃらに走り続けていた。
 行く先を塞ぐ灰色の壁。不潔な苔。焼け爛れた畳、打ち捨てられ埃に塗れた調度品。胸を焼くような不快さだけを醸す光景が眼前に広がる。どれだけ駆けても、どれだけ進んでも変わることのないおぞましさ。走り続ける俺の背後で、不幸の煮凝りのような気配が膨れ上がる。不吉な悪臭は鼻腔を刺し、直接脳に針を突き立てたような痛みを孕ませる。とめどなくこみ上げる吐き気と悪寒に苛まれながら、両足だけが別個の生き物であるかのように止まろうとしない。
 追われている。
 追い縋るものは女だ。
 俺はわけもわからず逃げ続けている。周囲は薄気味悪い森と雪山に囲まれ、到底逃げ出すことなどできそうにない。かといってこの朽ち果てた旅館の中を逃げ回るのも限界があった。いつか必ず疲れ果て、肉体が意志を裏切るときが来る。そうなれば最後だった。追い縋るものに──あの女に捕まってしまう。
 立ち止まることも、かといって旅館から脱出することもできず、必死で全身への叱咤を続ける。今はただ走れるだけ走れと命じ続ける。俺はもう知っている──これは夢で、目覚めれば解放されるのだと知っている。
 だから、後は俺が目覚めるだけでいい。嫌と言う程理解できる。理解できているのに、何故俺は目覚めないんだろう。
 ──少しずつ、追い詰められていく。
 廊下を跳ねるように駆け、ほとんど減速せずに角を曲がる。何度か壁に衝突しそうになったし、体の一部を掠めることがあったが、そんなことを気にしていられるような余裕はどこにもなかった。
 少しずつ進んでいく夢。
 最初に女を見つけたのは俺だった。
 だが、気付かれなかった。
 何度も同じ夢を見続ける内に女に気付かれ、追い回されるようになる。後はただ一方的に追い詰められていくだけだった。気付かれるべきではなかったのかもしれない──だが、何もかも今となっては手遅れだ。あの女が俺を逃がすことはないだろう。
 荒れる呼吸。痛む心臓と肺。背中越しに伝わる不吉な気配と、時折漏れ漂ってくる、すえたような悪臭。自分でも知らぬ内に擦り傷、切り傷が腕に幾重も刻まれている。古びた調度品にぶつけでもしたのだろう。痛みは脳に届く直前で恐怖によって遮断され、傷口に帰ることもない。
 喘ぐように呼吸し、込み上げる吐き気を押し殺す。死の恐怖よりも更に明確な──だが輪郭の不鮮明な恐怖に襲われ、俺は喉の奥から絶え間なく嗚咽を溢れさせた。歯を食い縛ろうとしても、震えが全身に伝わりうまくいかない。
 ──このままじゃ、
 このままじゃまた、トイレの個室に閉じ込められて──今度こそあの女を直視してしまう。この間の夢ですら、俺ははっきりあの女に居場所を知られてしまったのだ。ドアの上から覗き込まれて、見つけた──と宣告された。
 だからきっと次は、見つかっただけでは済まされない。
 ──助けて、
 助けてくれ。
 しかし俺の意志とは裏腹に、両足は記憶に残る道を選んでいく。客間を横目に通り過ぎ、ごみの散乱した廊下を踏みにじる──まるで誰かに誘われるように角を曲がり、痛む喉から悲鳴にならない声をこぼしながら走る。一度夢に見ただけなのに、周囲の光景全てが目に焼きついて離れない。
 ──助けて。
 トイレに駆け込む。
 一番奥の個室に逃げ込み、鍵をかけ、扉に背中を預ける。
 他に逃げ道が思い浮かばない。一秒でもあの女から遠ざかろうと思ったら、他に選択肢が見つからなかった。
 ──助けてくれ。
 俺は誰に祈っているのだろうか。
 誰かに助けを求めた気がする。でも、もうそれが誰だったのか思い出せない。ポケットから取り出したお守りだけが、朦朧とした頭でも理解できる唯一の助けだった。
 お守りを強く握り締め、みっともなく泣き腫らした目を瞑る。
 もう何も見たくない──できれば耳も塞ぎ、鼻も閉ざしてしまいたかった。
 あの女の姿、不快な息遣い、鼻がねじ曲がりそうな悪臭、その全てを無視してしまいたい。
 ──べちゃり、と。
 トイレの中に、誰かが入り込んでくる。
 途端、呼吸が引き攣り、全身が竦んだ。
 ──来るな。
 ──来るな、来るな、来るな。
 拒絶の言葉を何度も繰り返し、震える体を縮こまらせる。
 ノックの音が響く。
 ドアの開く音。湿り気を帯びた、いたぶるような哄笑。
 ──知ってるんだ。
 あいつは──あの女は、俺がここに隠れていることを知っている。
 当然だ。俺は一度あいつに見つかっている。
 それでも、丁寧に個室を一つずつ確かめて回っている。
 その方が、俺がより怯えることを知っているから。
 ──畜生。
 嬲られている。
 俺が情けない程に恐怖し、今にも失禁しそうな程怯えていることを、あの女はわかって──嬲っている。
 悔しさよりも先に慈悲を乞う惨めさを味わいながら、それでも俺は最後の矜持を振り絞った。ぴったりと押しつけた背中で扉を押し、決して開けられないように両足を踏ん張る。あの女がこの扉を開けることはないのだろう。ノックして、決してドアを開けようとはせず、俺が気を失うまで何時間でも待ち続ける──ドアの上によじ登り、俺を見下ろしながら待ち続けるのだ。
 ──畜生。
 ノックの音が近付いてくる。
 この前の夢よりもたっぷりと時間をとって、ゆっくりと。
 俺が怯えることを知っているから、
 だから性急に事を運んだりしない。
 きっと俺はもう助からない。
 二度と目覚めることはない。
 あいつも今回は逃がすつもりなどないのだろう。
 一秒が一時間にも感じられる。いっそ自棄になってしまいたくなる──ノックされたと同時にドアを開ければ、あの女を怯ませることができるんじゃないか。その隙に逃げ出すことができるんじゃないか。そんな馬鹿な考えが頭の中で鎌首をもたげる。
 そんなことができるわけないのに。
 俺にそんな勇気があるわけないのに。
 考えるだけなら──幾らでもできる。
 実行に移せたら、今頃俺はこんな薄汚いトイレに隠れて震えてはいない。
 ──助けてくれ。
 暗闇の密度が増している。
 全身にまとわりつく湿気が汗と混じり、べちゃべちゃと肌を汚していく。旅館の外は森と雪山だというのに、清浄な空気など微塵も漂ってこない。窓から忍び入るのは傾いた月光と汚染され腐敗した大気だけだ──きっとこの旅館に一歩でも足を踏み入れたら、何もかもが汚し尽くされるに違いなかった。
 隣の個室がノックされる。
 女の笑い声が鼓膜の奥までねじ込まれる。
 意識が暗転しかけ、俺は咄嗟に頬の内側を噛んだ。鋭く刺す痛みと鉄の味が口の中に広がる。
 ──畜生。
 気を失ってはいけない。
 あいつから一度でも意識を逸らしてはいけない。
 その瞬間──きっと俺は、ドアの上から覗き込む女に捕まってしまう。
 目が覚めないならそれでもいい──何時間でも、何日でも、この中に閉じこもってやる。
 ──畜生。
 再び、ノックの音。