小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

神もサイコロを振る

INDEX|1ページ/1ページ|

 
『神もサイコロを振る』
 
 大王製紙の創業者の孫であり、自らも会長職を務めた井川某という人物は、ギャンブルにのめり込み百億以上を借財し、いまだに五十億近くの借金が残っているという。凡人には計り知れない金額である。

 年下の知人とこの井川氏の話をしたとき、「あいつは大馬鹿者ですよ。あんな大金をギャンブルにつぎ込むなんて」と笑いながら言った。
「しかし、彼は小さい頃から神童といわれ、東大も出ているぞ」
「東大出ていようが、出ていまいが、関係ないです。大馬鹿者です。百億もつぎ込んでいますから」
 どうやら知人は百億という金額で判断しているようだ。が、ギャンブルに興じるという点では、この知人も五十歩百歩である。週末になると、必ず競馬場に行き、馬券を買う。金額は一万以下のようだが、彼の年収からすれば、決して小さな額ではない。
 知人は「一番頭使うのが競馬です。一日中、予想して帰ったときは、疲れて倒れるように眠ってしまいます」と公言するのを憚らない。この話を聞いたとき、思わず「ギャンブルに使う頭があるんだったら、仕事にもっと脳みそを使えよ」と叱った。というのも、ときどき頭を使えば分かるような簡単なミスをよくやるからだ。それに、ときどき会社は休むが、週末の競馬場通いは休んだためしがない。菊花賞や皐月賞とかの大レースとなれば、現地に乗り込んで観戦する。おそらく手に汗を握りながら頭をフル回転させ観戦しているのであろう。大馬鹿と言われた井川氏もやはり同じように、手に汗を握りながら、バカラ賭博などに興じたのではないか。

 ギャンブルの魅力はギャンブルをやった人間にしか分からない。四角四面に生きている人間には、ギャンブルに興じる人間は実に愚かで不真面目に見えるだろう(間違いではない)。
 ドストエフスキーは『賭博者の手記』で、サイコロの目がどうなるか見守っている、その一瞬が何ものにも代えがたい快感であるといった。同時にそのために恋人に会う約束も何もかも捨ててもいいとも言っている(これは彼の実体験の話である)。この心境は、興じたことのない者には理解し難いものであろう。
 これは自分の考えだが、投資の失敗をギャンブルと取り戻そうとしたと弁明した井川氏は、あるときから賭博者になり変っていたのではないか。逆説的な言い方になるかもしれないが、ギャンブルに熱中した事実を正当化するために、投資の失敗をギャンブルで取り戻そうとしたと言っているにすぎないのではないか。穿ったものの見方だろうか。

 ギャンブルの魅力は何といっても一発大逆転があるところである。普段の生活ではありえないのだが、ギャンブルの世界では、それがあり得るのだ。だから、その魅力にひかれ、ぬかるみに落ちてしまう。深く足を踏み入れてしまえば、底なし沼のように抜け出せなくなる。おそらく井川氏はそういった状況に陥ってしまったのではないか。それを愚かと笑うのは間違いではないが、芥川龍之介は『人間はときとして満たされるか満たされないか分からないものに、一生を捧げてしまう。その愚を笑うのは、ひっきょう、人生の路傍の人にすぎない』といった。その意味で、彼は路傍の人で終わるような真面目で退屈な人生に飽き飽きしていたのかもしれない。もっとも真実のほどは分からないが。

 アメリカの古い話である。大富豪が船でパーティーを開いた。そこでは賭博も行われていた。興じていた婦人がふと甲板に出てみると、大富豪がいたので、「ギャンブルはしないの?」と聞いたら、彼は微笑みながら、「ギャンブルはしない。なぜなら自分の事業そのものが大きな賭けだから」と答えたという。大富豪は賭け金の小さなギャンブルなど興味がないと言いたかったのであろう。井川氏にもこの大富豪のような才覚があれば、決してギャンブルというぬかるみに落ちることはなかったであろう。

 井川氏には、幾ばくかの同情の念をとともに大馬鹿者と簡単に片づけられないものがあると思っている。同時に彼の辿った足跡と心の奥底を覗いてみたいという好奇心がある。何故なら自分もかつては賭博者だったからである。満たされるか満たされないか分からないものに数えきれないほど賭けてみた。そのときの興奮は今も覚えている。足を洗って気づいたことがある。それはギャンブルに熱中しているときは未来が自分の手にあると勘違いしていたということ。未来は誰にも分からない。未来は神のみが知る。いや、神さえ未来は分からない。つまり誰の手にもあるかもしれないが、同時にその手にないリスクもあるのだ。

 話は少し逸れるが、かつて物理学者アインシュタインは『神はサイコロを振らない(Der Alte würfelt nicht)』といった。次の瞬間、量子がどこに存在するかは確率論的にしか分からないという量子力学が気に食わなかったのである。アインシュタインの神は美しい数式であった。その数式を解けば未来が予測できると思っていた。が、今は“神はサイコロを振る”という考えが大勢である。ひねくれたものの言い方をすれば、神もギャンブルに興じるのである。

 表が出るか、裏が出るか。確率論でいえば1/2である。だから賭け続けても、負け続けない限りは大負けしないというのは大きな勘違いである。結果は1/2でも、負けても、勝っても、常に胴元に金を払い続けなければならないからである。二人で勝負をしたとき、仮に勝っては負け、負けては勝てば、賭け金がなくならないかといえばそうではない。いずれかは二人ともゼロに近づく。なぜなら胴元に勝負の度に金を払うからである。つまり最後に笑うのは胴元というのがギャンブルなのである。

 塀の中で井川氏は何を考えているのであろう。
 おのれの愚かさを反省しているのだろうか。それともサイコロを振った神を恨んでいるのか。ひょっとしたら、不思議な平穏の日々を送っているかもしれない。もう二度と手に汗を握ることのない平穏な日々に安堵すると同時に退屈とも思っているかもしれない。
 これから先、彼はどうなるのか。誰も予測はできないだろう。もっともあまりいい未来にはなりそうもない、という予測はある程度つくが。いや、彼のみならず、我々もまた自分の未来は分からない。神はどんなふうにサイコロを振るのか。日本では、デフレ、高い失業率、大震災と悪いことばかり続いている。そろそろいい目が出てもいいのではないかと思うが、どうだろう。そばに神にいるなら、未来を聞いてみたい心境であるが、神が経済学者ケインズのようなユーモアがあるなら『長期的にみれば、誰も確実に死ぬな』と笑って答えるかもしれない。確かに、ギャンブルで大勝ちしようと、大負けしようと、何もしまいと、みな死ぬのだけは間違いない。
作品名:神もサイコロを振る 作家名:楡井英夫