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スリーアローズ
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津黄 〈 Tsu-o 〉

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ナカイさんに誘われて津黄に行った。彼は大手保険会社の営業主任で、僕の勤めている建設会社との取引を担当している。彼の仕事は迅速かつ誠実で、厄介な案件を何度か解決してもらったこともある。彼は僕が一目置いている数少ない職業人のうちの1人なのだ。
 先週会社の応接室で仕事の話をしているとどこからか趣味の方に話が逸れ、ナカイさんはかなりの太公望だということが分かった。僕は釣りといえば小さい頃に釣り堀に連れて行ってもらったくらいの記憶しかなかったが、ナカイさんがあまりに魅力的に話すものだから、それなら今度ご一緒しましょうということになった。
 家を出たのが朝の3時半。ナカイさんの運転するステーションワゴンで高速道路に乗り、途中サービスエリアで朝食をとる。高速道路を下りてからは夜明け前の田舎道を快調にひた走り、峠をいくつか越えたところに目的地はあった。到着したとき、ダッシュボードのデジタル時計は6:32を示していた。フロントガラスの向こうには赤紫色の空が早朝の海にぼんやりと映っていた。
 津黄は日本海に面した断崖の合間にできたうらさびしい集落だった。あまりに道が狭いためバスさえも入らない。小規模な漁港があり、その前には赤いポストの立った小汚い商店があり、商店の上方には斜面にしがみつくかのように建てられた住宅が所狭しと並んでいる。それ以外は何もない。駅もコンビニもなければカフェもない。診療所もなければ郵便局もない。小学校すら見あたらない。
 その断崖の集落にうっすらと朝陽が差し込みはじめている。
 時折日本海から強風が吹き込み、波が岩肌に打ち付ける。これまで聞いたことのないような轟音がこだまする。日本にもこんな場所があったのかと僕はまずそう思った。
「じゃ、さっそく行きましょうか」
ナカイさんはクーラーボックスに釣り道具とエサを詰め込んで、それを左肩にかけ、右手にはアルミ製の折りたたみ椅子と釣り竿をもって、ポイントに向かってすたすたと歩き始めた。仕事の時に見せるやや遠慮がちな表情はなく、いつになく自信に満ちた顔つきだった。僕はコンビニで買っておいたお茶と菓子と弁当を急いでリュックサックに入れ、それから自分の椅子を手に提げて彼についていった。
 ナカイさんは錆びたはしごを登って大きな防波堤の上に立った。僕も何とか彼に続いた。ナカイさんは防波堤の真ん中あたりから海をのぞき込み、一人で何やらぶつぶつつぶやいた後で、
「この辺でいいでしょうね」と言い、椅子を組み立ててその上に腰を下ろした。
 それにしても巨大な防波堤だ。これまで見たことのあるやつの少なくとも2倍の高さはある。海の中にそびえるコンクリートの塊は、遠くから見ると大規模な軍事施設を連想させた。日本海の本流が流れ込んでくるから、これくらいのものでないと波が防げないのだろう。
 ナカイさんの横に腰掛けたとき、背筋に寒気が走った。突風が吹いたら間違いなく海の中に放り込まれるだろう。そうなればこんな大きな防波堤にはよじ登ることはできない。ジ・エンドだ。
 一方ナカイさんはといえば慣れた手つきで仕掛けを作っている。僕の仕掛けもたやすく作ってくれた。それで僕たちは7時になる前に釣りを始めることができた。赤紫だった空はいつの間にか乾いたセルリアンブルーをたたえ、ちぎれた脱脂綿のような雲が潮風にたなびいている。
 僕は「よし」と声をあげて仕掛けを海に投入した。
 ところが全くと言っていいほど釣れなかった。
「時期は悪くないんですけどねえ」とナカイさんは眉間にしわを寄せた。「要は水温と潮なんですよ。しかし今の時期はもうだいぶ温度も下がっているし、潮だって今日は大潮だ。条件は揃ってるんだけどなあ。肝心の魚がまるで食ってくれない」
 ナカイさんはそう言って水面に浮かんだウキを見つめた。
 もちろん僕の仕掛けにも当たりはない。エサが突っつかれている形跡はあるので魚はいるのだろうが、釣れる気配はない。
 そのうち太陽が高くなり、水面がきらきらとまぶしくなってきた。それでも僕はこの防波堤の高さには依然として慣れなかった。
「コーヒーでも飲みますか?」と僕は言った。
「そうですねえ、小腹もすいてきましたし、このへんで小休止としますか」とナカイさんは言い、僕の差し出した缶コーヒーとアーモンドチョコレートを口にした。
「じつは、私の実家はここから近いんですよ」とナカイさんは竿を置いて言った。
「へえ、そうなんですね」と僕は言った。「じゃあ、ここには以前からよく来られてたんですね?」
「いえいえ、ここに来るようになったのは最近のことですよ。2、3年前ですかね。盆に帰省したときに初めてここでやってみたんです。そしたらいきなり65センチのヒラメを釣りましてですね。あれからですよ、釣りに狂い始めたのは。去年なんかはこの場所で80センチ級のカンパチを立て続けに2本上げましたよ」
「そんなのが泳いでるんですね」と僕は言い、海の中をのぞき込んだ。しかし海の中は濃い深緑をたたえているだけで、海底の様子など全くうかがえない。この防波堤はかなり深いところに作られているようだ。こうしていると背筋に嫌な寒気が走り足もすくむだけなので、また椅子に座り直した。
「お金を払って瀬渡し船を借りるという手もあるんですが、天候に左右されるんですよね。せっかく楽しみにしていても船が出ないことが結構あるんですよ。その点波止場釣りはよほどの雨が降らない限りできますから。それにこのポイントは船で沖に出るよりも大物が期待できるわけですし、醍醐味がありますよ」
 ナカイさんは少年のような顔をしてアーモンドチョコレートを音を立てて食べた。ただそうは言ったものの、竿にはまるで当たりがない。ナカイさんはフグやメバルを2、3匹釣りはしたが、どれも小さすぎて海にリリースした。
 11時を過ぎたところでコンビニで買っておいた幕の内弁当を食べ、それからポイントを防波堤の先端の方にずらして再び釣り始めた。
 それでも魚の釣れる気配はなかった。
「何年か釣りをやってますとね、こういう日に当たることもあるんですよ。魚はいるのに食ってはくれない。何とも歯がゆいですけどね」
 ナカイさんはそう言って、さっき食べた弁当殻を袋にくるんで、まだ氷しか入っていないクーラーボックスの中にそれを放り込んだ。
「それにしても、海はいいですねえ」彼はペットボトルのお茶を飲みながら、潮風に目を細めた。「いつも瀬戸内側にいると、この日本海が恋しくなるんですよ」
 僕も彼に倣って海を見渡した。半島と半島は水平線でつながっている。さっき車の中でナカイさんが言っていたが、この水平線の彼方には朝鮮半島があるらしい。その巨大な海峡から潮が流れ込んでくるわけだから、僕たちが毎日目の前にしている瀬戸内海とは迫力が違う。潮の香りも強い。水の色も濃い。  
「ここに来るだけで、リフレッシュできるんですよ」とナカイさんは言って、まき餌を海にばらまいた。
「実は、この津黄には高校の同級生の家がありましてね」
 ナカイさんはそう言って、まき餌の落ちたポイントに、餌の付いた仕掛けを正確に投入した。