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樹魚

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出現に関して特に規則性や、周期性があるわけではないらしい。
数百年間まったく姿を見せないこともあれば、毎週のように現れたこともあるという。
出る場所も決まってはいないとみえて、旧世界から新大陸まで、記録が残っている。
姿形にも、とりたてて規格が決まっているわけでもないようだ。
大人の親指ほどであったという逸話もあれば、大樫を寄り倒すほどであったという噺もあり、逆立つ鱗を供えていたかと思えば、鰻の粋を集めたかのようにぬめっていたとも伝わっている。結局は魚である以外は、本質的にいい加減なヤツではないかという説を友人の古書店主はしきりに唱える。
そんな、魚が突然地面から現れ、樹に登る。そんな、奇怪な話が、世界各地に伝わっている。
キノボリウオという魚が、東南アジアに生息している。だが、この育ったとしても30センチに満たない淡水魚は、実際に木に登ることはない。せいぜい雨が降ったときに地面を這う程度だ。
奴らは違う。ある日突然に、大地より現れ、樹に登っていく。そして”啼く”のである。まさしく、蝉だ。
その啼き声を、東西南北古今東西の記述者たちは、それぞれの言語で、それぞれに記録してきた。過剰な形容で、詩的な比喩で、直截な断定で、だが、本質は一つ。

気味が、悪いのだ。

南宋の士大夫沈備の著した『経冥記』には、祥興3年の夏に成都に現れた樹魚について記録されている。曰く腹の底から下半身の全てが震えるようであったという。また、それを聞いた乳飲み子が三日三晩泣き続け、四日目にころりと死んだとも伝えている。18世紀中頃バーデン辺境領の司祭ゲオルグ・ベルリヒンゲンの回想録は、教会の庭にあらわれた、木に登る魚形の悪魔について恐れをもって記す。冷たく、穢らわしい、心奥の良きものをなめ回すような、まさに腐った魚そのもののような啼き声であったと。
そして、啼き声は雨を呼ぶ。邪悪な声で、震わされた大気の向こう側から、必ず降り出すのだ。嫌な、粘つくような重い雨が。
「しかし、雨を降らせても、だれも喜んでくれないんだよねえ」
と、したり顔で語るのは、学生街の片隅で不景気な店を開く痩身の古書店主。私に樹魚の存在を教えた男だ。正確には、樹魚について書かれた本を売りつけた言うべきだが。
 祖父の代からの土地持ちで、食べるのに困らないという結構な身分を最大限に活用して、自分の趣味のみを優先し、基本的に不景気な古書店という商売に輪をかけるように不景気な店を営んでいる。おかげで、店はまともな客はついぞ寄りつかない変人窟となりはてたが、当の本人はその方がなぜか面白い本が集まるとむしろ満足げではある。
 樹魚についての本もそうして流れ着いた一冊だという。著者は戦前の博物学者。帝大で昆虫学と文献学に耽溺したあげくに、一つ蝶を探しと、出かけたボルネオで行方知れずになったという変人が、古今東西の奇談怪談を彼にしかわからない基準で蒐集し、注釈したという、まともな本屋とはとても無縁の珍本の類だ。
 そんな珍本をわざわざ買い求めた客が珍しいのか、私が店によるたびに話しかけてくるのだった。時には妙に美味なコーヒーと茶菓子を店の奥から持ちだしてくることもあった。曰くどうしてか客は一人ずつしかこないから問題ないのだという。別の客を観た覚えは終ぞ無いので、きっと真実なのだろう。客が私しかいないのではないだろうかという、より素朴で単純な可能性はさておいて。それからずっと各種の伝説、異説の類を集めた古書を探り、樹魚の伝承の断片集めようという私の熱情につきあっては、どこからともなく珍本を探し出してくれる。
 確かに、彼のいうとおり、雨を降らせるという点に着目するならば、単に忌まわしい存在とはいいきれない。干魃を打ち破り、大地に恵みをもたらす、雨の、天の使いとして、敬われてもおかしくはない。だが、どの伝承にもそんな記述はない。ただ、おぞましき啼き声と不快な雨について伝えるのみだ。
「きっとだれも望んでいないときに限って、現れたんだろうね」
 と、入荷した古書のチェックを終え帰宅しようとする私に、店主はにやにやと笑いながらつぶやく。まるで、この店みたいだと自嘲気味に。
 それは、私も同じだ。女子高生というものが、私の今の基本的な属性だ。朝起きて、学校に行き、示された課題に対して最も適切な回答を出力する。私にとって、学生であるということは、それ以上でもそれ以下でもないのだが、周囲はそれを許してくれない。感情、情動、動揺。そうやって互いの精神を揺らしあい、共鳴させあい、あらかじめ定められた感動という結末へ導かれなければならない。まるで、全能で不可視の戯曲家によって記されたシナリオをなぞる必要があるかのように。
 いまさら、語る必要もないことだろうが、放課後に古書店に入り浸る"女子高生"に、適当な役など在りはしない。道化ですら、他の誰かのものだった。
 そんなふうに、置き所のない自分に半ば重ねて、私は樹魚の伝承を求めた。自動的に帰り着いた自宅で、自動的に娘としての反応を出力し終えると、月光の差し込む自室で、蒐集した資料の読解と、分析に当たる。この時だけは、きっと私は私なのだろう。私のように、曖昧な異形に引かれた同類は少なからずいるようで、怪異についてのエッセイの半頁に、心性史を論じた歴史書の脚注に、あるいはネットの片隅の妖怪ファンサイトにまるで不気味な刻印のように、あるいは私への合図のように奇妙な魚の影が現われていた。
そうして綴り合わせた伝承からは、ひとつ月との関連も指摘できる。
 万治元年、相模の本草学者荒間多寛は、七夕の夜を真昼のごとく照らした巨大な月と、それに誘われるようにして土中より現れた、奇怪な魚について記録している。バリ島を訪れた18世紀の宣教師は、現地人の俗信として、満月と共に大地より這い出す魚形の悪魔についての報告を本国へと送っている。1976年5月には、メイン州の地方都市で、プロムの最中に突然現われた朱い月と、校庭に大量にうち捨てられた魚の死体についての記事が地方紙の片隅に掲載されている。そしてその夜のプロムでは数名の生徒が、原因不明の失踪を遂げるという事件が起きたという。
 その他にも、樹魚と月の異常を同時に語る記録は多々存在する。どこから現われようと、魚は魚であり海に天空から支配の力をふるう月の影響を免れないということなのもしれない。それとも夜の闇を溶かし、時間と空間の全てを支配した月夜を現出させる、月光そのものが彼らを、地上へと呼び寄せているのかもしれない。無遠慮に全ての闇を消し去ってしまう太陽ではなく、闇と光の境界線を静かに浮かび上がらせる月を彼らは求めているのかもしれない。曖昧な存在を、曖昧なままに許容してくれる、慈悲にあふれる夜の女王を。
 私は、きっと後者なのだろうと思っている。
 そうして想像するのだ。天空から操られる潮のように、月光に導かれ大地を盛りあげて這い出す魚の姿を。冴え冴えとした冷たい月の光が、ぬめぬめとした粘液を鈍く照らし出し、大きな濁った瞳が空を見上げるのだろう。暗く重い土の中で求めたのだろう。一切の重さをもたない、透明なその輝きを。
作品名:樹魚 作家名:一筆