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女から三十歩離れろ

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『女から二十歩離れろ』

 幸彦は妻の明美に頭が上がらない。もともと気が弱いうえに、妻の実家からときどき援助を受けているからである。昨年も一戸建ての家を購入する際に半額を出してもらっている。
 明美は美人だが言葉に棘がある。そのうえ弁も立つ。彼が一を言う前に、十くらい言ってしまう。子供が二人いるが、夫婦喧嘩となれば、二人とも妻の味方をする。妻の方が優れた戦略家であるからであろう。大型犬も一匹いるが、普段から妻が威張っているため、妻を家長と勘違いしている。その証拠、彼が命令しても、言うことを聞かず居眠りをすることがしばしばある。はたからみれば、彼は気の弱い恐妻家以外何者にも映らない。恐妻家であれば、奥さんの尻に敷かれて大人しくしていればいいのに、彼はそういうわけではなかった。無類の女好きで、暇さえあえれば口説いていたのである。類稀な美男子であるため、どんな女でも口説けば簡単に落ちた。妻の眼を盗んでは、不倫を楽しんだ。ただ、どんな相手でも深い仲にある前に別れた。幸せな家庭を壊したくないというのと、妻が恐ろしかったからである。

 取引先の会社員であるめぐみとの関係は二年間続いた。めぐみは長身でプロポーションも抜群だった。モデルのように美しかった。二十歳近くも離れていたが、宴会の席で酔った拍子に口説いたら、めぐみは簡単に体を許した。幼いときに亡くした父に彼がダブってしまったのである。相手が遊びとは知らずに、めぐみは本気に惚れてしまった。

一戸建ての家に引っ越した一週間後のことである。幸彦がめぐみとの関係をそろそろ清算しようと思い、「もう二年経つね、そろそろ別れよう」と別れ話を切り出した。
めぐみはうな垂れたまま黙って聞いていたが、幸彦の話が終わると、泣きはじめた。しかし、どんな女でも恋の悲しみが一時であることを知っていた彼は、めぐみを残したまま、ホテルの一室から消えた。
 数日が経った後ことである。彼の前にめぐみが現れた。彼は驚きの色を隠せなかった。
「どうした? もう別れたはずだ」
「分かっているわ、お別れに、これをプレゼントしようと思って」と包みを渡した。
 不思議そうな顔していると、
「絵よ、新しい家を買ったのでしょう、玄関にでも飾ってもらおうと思って」
 彼はほっと胸を撫でおろし、快く受け取った。

家の玄関にめぐみからもらった絵を飾った。
「まんざら趣味が悪くないな」と嬉々とした顔で眺めていると、
「どうしたの、この絵?」と明美が言った。
「知り合いからもらったんだ」
「まさか、女の人じゃないでしょうね」と恐い顔した。
「そんなことはない。仕事の取引先さからもらった」と言い訳をした。
 間違いではないが、正確にいえば、取引先の女、それも不倫相手だっためぐみからだ。明美はじろりと見た。仮に一筋の冷や汗が流れた背中が見えたなら怪しいと思っただろうが、残念ながら見えなかった。

 新しい家に住んで一年が過ぎた。幸彦は、めぐみのことも、玄関に飾った絵もすっかり忘れていた。そんなある日、明美が、「玄関の絵を取ってくれない」
「どうして?」と聞いた。
「だって、趣味が良くないから、新しい絵を買ってきたのよ、額縁はそのまま使うから」
 言われるまま幸彦は壁から外した。額縁に収まっていた絵を取り出した。すると、どうだろう、一枚の写真が出てきた。すぐさま、明美が見た。
「何よ、これ!」と明美が烈火の如く怒り狂ったのも無理はない。めぐみとの情事の際に、撮った写真だったからである。万事休すだった。明美の怒りの言葉が機関銃のように彼を貫いた。子供たちがいる前でも罵った。子供たちも、犬も、蔑んだ目で父親を見た。彼の心は塞ぎようがないほど穴だらけとなってしまった。その日以来、不倫を禁じるために小遣いは大きく減らされた。それも一日に渡されるのは八百円だけ。六百円の昼飯といっぱい二百円のコーヒーを飲んだら一円も残らない。そのうえに、同じベッドにも入れてもらえないようになった。
日々、昼飯代分の小遣いをもらい会社で一生懸命を働くというのを繰り返す人生が始まった。そこに一杯引っかけて帰るという休息もなければ、奥さんからいたわりの言葉をかけてもらえることもない。子供からも、犬からも、冷ややかに見られている。もっとも自業自得といえばそれまであるが。そもそも女というのは、男にとって愛をかわす大切な相手であるが、同時にもっとも危険な生き物でもあることを、彼は知らなかった! インドの諺には、こういうのがある。『象から七歩、牛から十歩、女からは二十歩、酔っ払いから三十歩、離れろ』。距離が危険の度合いを表している。たとえ小娘であろうと、安易に近づいてはいけない。象や牛に近づく以上の細心の注意がいる。そうしないと、とんでもないヤケドを負ってしまうのだ。


作品名:女から三十歩離れろ 作家名:楡井英夫