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バナナを待つ

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 ここに、一房のバナナがある、としよう。
 鮮やかに黄色く、まだ黒い斑点は少ない。
 一本とって、皮をむいても、悪いことはない。
 彼女は、そう考えた。
 だが、彼は、それをおしとどめる。
「まあ、待て」
 と言うのだ。
「まだ早いよ。ほら、まだシュガースポットが出てない」
「シュガースポット?」
「そう、時間がたつと、皮に黒い点が出るだろう。あれだ」
「古くなっただけじゃないの」
「あれが多いほど、中の実は甘くなるんだ」
「それだけ腐ってるんじゃないの」
「熟してるんだ」
「やわらかくなって、ぐちゃぐちゃになるだけじゃないの」
「成熟と腐敗は違うよ」
「でも、黒くなったら、値段も下がるじゃない」
「甘くなったうえに、安くなって、お得だ」
 そのとき、どこかでスイッチが入った。
「わかった。もういい」
「は?」
 彼女のなかでスイッチが入ったのは、彼にもわかった。
 しかし、なんのスイッチかはわからなかった。
「なに? なにがわかったって……」
 彼女は、きびすを返し、寝室へ入った。
 一分後に出てきたときには、外出できる姿に変身していた。
 化粧も服装もしっかりしていた。
 それだけではなかった。
 キャスターのついたスーツケースを引いていた。
 持たずに、引いている――中身が詰まっているのだ。
 この短時間で準備できるわけがない。
 以前から、このときのあることを予期していたのだろう。
 スイッチの意味が、彼にもわかった。
 脱出装置のスイッチだ。
「あのう、もしもし……」
 彼女は、すたすたと短い廊下を玄関へ進む。
 そのあとを、彼はおたおたとついてゆく。
 二種類のスリッパの音と、キャスターの転がる音。
 彼は、歪んだ眉毛の下から、情けないまなざしを送り続けた。
 彼女は、玄関を出るまで、黙ったままだった。
 扉を閉じるまえ、ほとんど一瞬だけ、ふりかえった。
「黒くなって、安くなったバナナを買うなんて、あたしには無理」
 無表情に言った。
 彼には、意味がわからなかった。
 声は聞こえていたが、意味が理解できなかった。
「意味がわからないって顔ね。だから、無理なのよ」
「無理って、何が?」
 彼女は、扉を閉じた。
「さよなら」
 その言葉だけは、彼にも理解できた。

                                   (了)
作品名:バナナを待つ 作家名:野尋禾