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せき あゆみ
せき あゆみ
novelistID. 105
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潮風の街から

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父からの贈り物



トンネルをぬけると、潮のにおいがしてくる。海に突きだした山と山の間に、へばりつくように家が立ち並ぶ小さな集落。海へ続く坂道を半分ほど下ると、わたしの実家がある。
細い路地を右に曲がろうとして、ふと左の方に目をやると、ちょうど海からもどった父が、こちらへ向かって歩いてくる。
フランネルの布を、ターバンのように捲いた帽子をかぶり、陽と潮で焼けた黒い顔に、満面の笑みを浮かべて。

父が死んで、もう二十年になるが、時折訪れる実家への曲がり角で、わたしはきまってそんな錯覚におちいる。

そうして、実家の茶の間の、いつも父が晩酌していた上座。やはりそこに、今も父がいるような気がしてしまう。わたしの中で、父の存在は遠くなるどころか、ますます近く、大きくなっている。
父は晩酌をしながら、真っ赤な顔でよく言っていた。それはお説教のようでもあり、また、自分に言い聞かせているようでもあった。
「我が身をつねって、人の痛さを知れ」
そのたびに、
「酔っぱらいにいわれてもねえ」
と、母やわたしは笑った。
けれど、その言葉は、しっかりわたしの心に刻まれている。
おそらく、それが父の座右の銘であり、生き方だったのだろう。その言葉が根底にあるから、人と競争したり、人を押しのけて、自分だけが得するようなやり方を好まなかった。

父は漁師として、早く亡くなった両親の代わりに、家庭を背負って働いてきた。
漁師は、魚が捕れなければ生活が成り立たない。それも、毎日漁に出て、捕れなければ『ゼロ』ではなく、船を走らせた燃料費の分が『マイナス』になってしまう、厳しい仕事だ。
だから、漁師は新しい漁法を編み出したり、いい漁場を見つけたりしたときには、決して他人には言わないものなのだという。
けれど、父はちがった。
もし、自分が先にいい漁場を見つけたとすると、周りの人に教えてしまう。それで、抜け駆けされて、自分の水揚げが少なくなったりしたこともあったようだ。
 
子どもの頃のわたしは、冬の寒いときでも朝早く起きて、海に行かなければならない漁師の仕事を、いやだと思っていた。けれども、魚は大好きで、四季を通じて食卓を彩るさまざまな魚、アジ、鯖、イカ、鰹、ビンナガマグロなど、大人並みの食欲で味わった。
ずっと小さい頃は、カジキも釣ってきた。切り落とした長い角の、固くてざらついた感触は今も忘れない。
長いものほど大きいカジキ。釣った証拠に大小様々な角が、茶箪笥の上に並べられていた。そして、それを削って、釣りの道具にしていたようにも覚えている。

時には、漁師でなければ体験し得ないことを、いろいろ話してくれた。
朝日が海面から上がる日は、一年に数回しかないけれど、そのあと天気が崩れる。
海岸の崖を赤く染めるほどグミの実がなると、鰹が大漁だ。等々……。
いるかの問題で、日本が外国からバッシングを受けていた時には、つぶやくようにこう言っていた。
船を走らせていると、いるかが何頭か、一緒に並んでついてくる。それがすごくかわいいけれど、いざ漁場に着いたとき、一頭でもいると、魚が逃げてしまって漁にならない。その時ばかりは、いるかが憎らしくなる。と。

また、夏にいとこたちが遊びに来たときには、船に乗せてくれた。船が港を出ていくときは、うねりに逆らって進むので、まるでジェットコースターのように上下するが楽しかった。
ただし、帰るときには、水面を静かに走る小刻みな振動で、気分が悪くなってしまうこともあったけれど。
漁船が、木造からFRP(繊維強化プラスチック)に替わったのは、わたしが中学生の頃だった。NHKの番組でそのことが取り上げられたとき、父はたまたまインタビューを受けてしまった。

放送当日は親戚にも連絡して、みんなでわくわくしながら見た。ビデオがなかったのが、残念だと今更ながら思うが、家庭用ビデオの登場は、その十年後なので仕方がない。
ところが、そのFRPは、わたしにとって、とんでもない代物だった。

夏休みに、遊びに来たいとこたちのために、父が湾内を一回りしてくれるというので、一緒に船に乗った。すると、太股の後ろからふくらはぎにかけて、じんましんがでてしまったのだ。それもわたしだけ。
スカートだったのが災いした。舳先に腰掛けていたので、肌が直にふれていた部分がかぶれてしまったのだ。かゆいばかりか、薬を塗ろうにも、ちょっとふれただけでもちくちく痛いので、さわれない。かゆみと痛みに耐えて数時間、やっとそのじんましんは消えてくれた。
その時ほどわたしは、男でなくてよかった、漁師の跡を継がなくていい、女でよかったと心から思ったことはない。

というのも、父は跡継ぎになる男の子の誕生を心待ちにしていたのだそうだ。
姉が生まれて三年後、わたしの誕生の時には、今度こそ男だと、まわりからも励まされたせいか、てっきり男の子だと思いこんでいたらしい。けれど、いざ生まれたのがわたしだったので、そのショックで一週間寝込んでしまったのだという。
更に三年後、弟が誕生した時には、足が地に着かないほどの喜びようだったらしい。

皮肉なことに、弟が長じるにしたがって、漁業は衰退の一途をたどっていく。
父は、漁師は自分の代で終わりだと言って、弟には自分の好きな道を進ませることにした。わたしが男なら、当然のように父の跡を継いだかも知れないが、わたしと弟の三年の年の差が、父に漁師という稼業に見切りをつけさせる、大きなターニングポイントとなったようだ。
その決定には、「我が身をつねって、人の痛さを知れ」という、父の心が生きている。自分につらいことを息子にさせたくはなかったのだろう。
父は病に倒れるまで、一人で沖に出ていった。たった一人で船を操り、魚を捕るのはかなりの重労働だ。
あるいは、わたしが男だったら、漁を手伝って、そんなに体を酷使しなくてすんだかもしれない。そうすれば、もう少し、ゆっくりと体を休める時間があっただろうに。
男に生まれなくて、ごめんね。
病室で、意識のない父の顔を見ながらつぶやいた。
 
いじめや暴力、あげくは殺人……。父が生きていたら、日々テレビから流れてくる悲惨なニュースに、さぞ心をいためることだろう。
今ほど、「人の痛みを知る」ことが必要な時代はないとわたしは思う。他人の心を思いやることが欠けているから、問題が起こる。
わたしの息子たちも、思春期のまっただ中。学校や友人関係で、いろいろな問題にぶつかり、時には傷ついたりもする。そんなとき、わたしは父のこの言葉を彼らに言う。
「我が身をつねって、人の痛さを知れって、おじいちゃんがよく言ってたけど、自分がいやなことは、他人にはしないこと。人はどうでも、あなた達は、まずそれを忘れないで」
わたしは息子たちに、決して、人の痛みのわからない人間になってもらいたくない。たとえ、傷つくことが多くても、その分優しい人間になれると、信じているから。
 
頑固で、人の痛みがわかる優しい父。わたしの息子たちは、そんな「おじいちゃん」のことを知らない。
でも、わたしは、父の言葉は、子どもであるわたしたちばかりでなく、未来につながる孫たちへの、最高のプレゼントだったと思っている。
作品名:潮風の街から 作家名:せき あゆみ