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サルバドール
サルバドール
novelistID. 32508
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いつか見た風景・第4章

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夜気を取り込んで扉が閉まった。乾いたエンジン音を掻き立てて、車が動き始める。夜の風景が小さくなっていき、遥か彼方へと押しやられる。ルームミラーに映し出されているのは、運転手の目と、地面に突き刺さる夥しい雨だけだ。

「今日のあなた、やっぱりおかしいわよ。病院に行かなければならないのは、あなたの方なんじゃないかしら」 

先ほどの意趣返しのつもりなのか、女は口元に勝ち誇った笑みを浮かべている。浦澤は、女の言葉を無視して、窓外に目をやる。長方形に切り取られた鉛色の空、雲間に雨が滲んでは地上へ降りていき、それらは霧のカーテンとなって周囲を覆う。右から左へと流れていく建物の群が、その間隙に陰鬱な外観を覗かせる。雨に洗われるそれは、闇に張り付いた無数の顔だ。その一つ一つが大口を開けて笑っているように、浦澤には感じる。喧しい笑い声が窓を透かして押し迫ってきそうだ。浦澤は耐えられなくなって、視線を窓外から車内へと転じた。その刹那、浦澤は心臓の高らかな拍動を感じた。ルームミラー越しに運転手と目が合ったからだ。運転手は斜視だ。右目は真っ直ぐにこちらを捉えているが、左目は中央に寄っていて焦点が定まらず、まるでガラス細工のようだ。車は沈黙を運んで夜道を駆る。跳ね上がった水飛沫が霧の膜に吸い寄せられて同化する。進行方向の遥か先で光の点が浮かんでいる。信号だ。赤、青、黄と三つ並んで真円を描くそれらの、赤だけが光を発して闇に映えている。車は仄暗い通りを抜けて大きな交差点に差し掛かり、徐々に速度を落として停止線の前に停まった。

「さっき、あなたは何を見ていたの?」
「何でもないよ。さっきも言ったけど、疲れているだけなんだ」
「そうかしら」

霧の向こうに見えた風景は、まだ瞼の裏に焼き付いている。地面に転がった青い傘、投げ出された小さな足、流れていく緋色の液体。それらは繋ぎ合わされて明滅を繰り返す。

「本当に疲れているだけだ。気にしないでくれ」

信号が赤から青に変わった。運転手はハンドブレーキを倒して、アクセルペダルに足を乗せた。排気ガスを吐いて、車が交差点へ出ていく。前方から右折車が現れ、あわや接触しそうになるところで運転手がブレーキを踏んだ。目の前を通り過ぎる黒塗りの車、窓越しにヤクザ風の男が一瞬見えて、鋭い眼光がこちらに注がれたが、斜視の運転手はまるで意に介しておらず、対向車が走り去るのを待ってから、再び、アクセルペダルに足を乗せた。車が交差点を越えて大きな通りに出ると、夜の諸相がさらに陰鬱さを増した。視界に拡がる街は、雨に叩かれて灰色に淀み、賑わいの残骸を僅かに見せるばかりである。

「店で飲んでいる時、君は妙なことを言ったな」
「何かしら」
「君がこちらにやってきて、もう一人の自分を殺したと」
「ええ、言ったわ。それがどうかした?」
「そんなことが可能なのか?」
「可能だったから、わたしが此処にいるんでしょ」
「確かに理論上は可能かもしれない。ただ、それはパラレルワールドがあるという前提がなければダメだ」
「何が言いたいの?」
「君は本当にあちら側から来たのか?」

女は浦澤の膝に足を引っ掛けて答えた。

「そうよ」

浦澤は女に向き直った。座席の背もたれに横顔のシルエットが浮かぶ。

「その世界には……」

瞼の裏側で繰り返されていた明滅が俄かに止まった。地面に転がった傘が大写しになる。その中から手が伸びた。血に塗れた、小さな手だ。それはゆっくりと地面を這う。やがて、小さな子供がその相貌を露わにした。額から流れる血、虚ろに見開かれた目、紡ぎ出される声なき声。お・と・う・さ・ん。

「……君が居たその世界には、俺は居たのか? 俺の妻や俺の……」

俺の息子、と言いかけて、浦澤は言葉を飲み込んだ。卓也の顔が引き伸ばされて瞼の裏側を埋め尽くす。女が笑った。細く象られた指を男の股間に這わせる。俺の、何? 女がそう言ったのと同時に浦澤の胸ポケットの中で携帯が震えた。

「携帯、鳴ってるけど」

浦澤の咽喉が波を打つ。ポケットに手を滑り込ませて、震えるそれを取り出す。液晶の小窓には、末娘の由香の名前が表示されている。電話ではなく、メールだ。安堵している自分を、浦澤は心から笑ってやりたくなった。メールを開いた。添付ファイルが貼られている。受信ボタンを押すと、一枚の画像が表れた。女が横から覗き込んで、あら、かわいい、と言った。

映っていたのは、子供用の水着だった。水玉模様のついた、女の子らしい水着だ。しばらく眺めていると、携帯が着信を告げた。由香からだった。通話ボタンを押すと、あどけない末娘の声がスピーカーから溢れた。

「お父さん?」
「可愛い水着だな。買ってもらったのか?」
「うん、お母さんに買ってもらったんだよ」
「海水浴にでも行くのかな」
「そうだよ。明日からね、おばあちゃん家に行くんだって」
「おばあちゃん家に?」
「うん」

娘は今年、小学校に上がったばかりだ。時折、こうやって電話をかけてきては、浦澤の睡眠を妨げる。誰と電話しているの、と耳元で女が囁く。女の指は、浦澤の股間の上に置かれたままだ。浦澤は、女の方を意識しないで、娘との会話に興じる。

「お父さんは今、何しているの?」
「仕事だよ」
「おしごと、いそがしい?」
「ああ、まあね。由香はどうだ? 夏休み楽しんでいるか?」
「うん、毎日楽しいよ。昨日なんかね、りえちゃんとミナちゃんと一緒にプールに行ってきたんだよ」
「おお、それは良かったな」

女はジッパーを下ろして、男の竿を引っ張り出した。萎えて伸びきったそれを口に含む。浦澤は空いた手で女の頭を掴んだ。

「お父さんも、一緒に海に行こうよ」
「行きたいところだけど、お父さんは、今、ものすごく遠いところでお仕事しているから無理だ」
「え~」
「今度、うちに遊びに来い。そしたらドライブにでも連れて行ってやるから」
「うん」

何しているの、由香、明日は早いんだから、早く寝ちゃいなさい。電話の向こうで女が叱声を浴びせる。妻の加奈子だ。また勝手にお父さんに電話したのね、ダメだって言ったじゃない。とにかく、明日は早いんだから、早くベッドに行って。ヒステリックな声に咎められて由香の声が小さくなる。はーい。由香は無理矢理、電話をひったくられたようで、入れ替わりに加奈子の声がスピーカーから聞こえてきた。

「もしもし」
「もしもし」
「こんな時間に悪かったわね」
「いいんだ、ちょうど起きていたところなんだ。気にしないでくれ」

沈黙が膜のように張り付く。浦澤の竿を銜える女の、ルージュに染まった唇が不気味に歪む。

「実家に帰るのか?」
「ええ、民宿の仕事を手伝ってくれって母から言われているの」

浦澤の手の下で女の頭が激しく上下する。女の口の中で、意志とは裏腹に竿が硬くなる。スピーカーから声が漏れる。ねえ、あなた。

「何だ」
「話があるの」
「話って?」
「後でこっちから掛け直すわ」
「今話せよ」
「ううん、今、あなたはとても忙しいみたいだから」