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この雨が止む頃に

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VISITING HOURS/僕達は別れるべくして出会う


■ □ ■ □ ■

「F=C・r二乗/ee'」
 何の脈絡もなくそんなことを口走り、少女はアーモンドによく似た形の瞳を「くるん」と動かした。一面に広がる雪景色を背景に、肩口で切り揃えたおかっぱ頭の黒が目立つ。セーラー服の上から赤地に花の絵を縫い込んだどてらを着込み、電信柱の陰にうずくまっている姿は、不思議と周囲の光景に溶け込んでいた。肌は病的に青白い。痩せこけている──というほど痩せてはいないが、明らかに標準体重は下回っているようだった。全身を構成するパーツが小さいためか、結果としてできあがった体はひどく小柄に見える。
 少女はただひたすらに微笑んでいた。無垢でもなく純粋でもなく、かといって愉快というわけでもない笑顔。ただ笑いたいから笑うのだと世界に対して宣言しているような、そんな微笑みを唇の端に浮かべている。
 食料を求めて街中を歩き回ったあげくに見つけたのは、ようするにそんな少女だった。どうしようもなく脱力し、秋川拓也は深く重いため息を吐き出す。さすがに手つかずの食料が山のように見つかるとは思っていなかったが、だからといっておかしな女の子を一人見つけただけで終わるとも思っていなかった。改めて、今の世界に蔓延する不条理の巨大さを感じてしまう。
「クーロムの法則がどうしたよ」
 少女が口にした公式は、静電気の法則を表すものだった。異性の電気同士は吸引し、同性の電気同士は反発する。
「……なあ」
 黙ってこちらを見上げる少女に、拓也はどこか虚脱した声で呼びかける。最初から答えを期待していなかったので、ひどく間の抜けた発音になった。そのことに気付いてはいるものの、態度を改めようとは思えない。正直な話、拓也は退屈しきっていた。世界終局宣言が発令されてからというもの、まともに人と会話をしていない。この際怪しい少女が相手でも、日本語さえ通じればいいという気持ちになっていた。
 伸ばした前髪を指先に絡める。自分の顔が十人並みであることは自覚していた。身長は高くもなければ低くもない。体重は最近になって露骨に落ち始めていた──運動に励んだわけではなく、ただ食べていないから痩せ細っているだけなのだが。
 高校指定の制服は、一応冬服の分類に入っていた。都内でも割合有名な進学校のものだ。入学試験を受けた直後などは、まさか自分がこの制服を着ることができるなどとは思ってもいなかった。だが吹き抜けていく冷風は、受験勉強の苦労などには一切関係なく体温を奪う。寒さに震えて体を縮こまらせる姿は極端な猫背だった。
 拓也自身がはっきりと自覚できるほど、外見的な特徴は皆無に等しい。強いて言うなら、気温が氷点下にまで下がったこの街で、コートも着ずにうろうろしているところだけが目立った点と言える。そういう意味では目の前の少女と何も変わらない。
 二人が二人、揃って怪しいという、つまりはそれだけのことだった。
「えーと……日本語わかる? Do you speak Japanese?」
「そこはCan youだと思うけどね」
「……Do youの方がフランクな言い方なんだよ。英会話の本とかにも載ってるだろ」
「そんな本読んだことないもん。オニイサン、お名前は?」
 突然尋ねられた質問に、拓也は軽く首を傾げた。少女も真似して首を傾げる。ぐぎゅっ、とゴムの潰れる音がした。少女は真っ赤な長靴を履いて、雪に覆われた道路を踏みしめている。
 ガラス玉のような眼差しで立ち尽くす拓也に、少女はもう一度、ゆっくりと唇を開いた。
「オニイサン、お名前は?」
「秋川拓也だよ」
「私は深沢美雪。よろしく、拓さん」
 間髪入れずに即答する声に、それを追いかける自己紹介と簡単な挨拶。
 拓也はほんの少しだけ笑って、まとまりの悪い髪の毛をくしゃくしゃとかき回した。ただひたすらに微笑み続ける美雪と向き合い、言うべき言葉を模索する。話したいことはいくらでもあった。だがそれらは頭の中を通過していくだけで、どうしても現実の言葉にはならない。数分もかかって考え込み、結局拓也が選択したのは、
「……おまえ、ハピネス症候群だろ」
 という断定の言葉だった。自分でもはっきり失礼だと自覚できる言葉に、しかし美雪は大きな目を「くるん」と動かして頷く。
 ハピネス症候群。
 この世界に蔓延する全ての不条理から身を守るため、世界中の人間が感染し、今もなお治療法の見つからない奇病だった。この病気に感染した患者は多幸感に包まれた顔をして、どんな些細な幸せにでも大きく喜び、どんな不幸にでも優しく微笑むことができるようになる。
 代償に支払うのは、正常な思考能力の欠落だった。
「拓さんは、違うの?」
「まあな」
 滅びかけているこの世界で、正常な思考能力を持っていることにどれほどの意味があるのかはわからなかったが。
 それでも拓也は、ハピネス症候群に感染するのだけは嫌だった。幸せという言葉が嫌いなのかもしれないと、遠くにものを放り投げるときのような心地で考える。
 美雪は猫の目のように挙動の安定しない瞳を見開いた。眼球の表面に渦巻きの模様が浮かんでいる。ハピネス症候群に感染した患者が外見的に見せる症状の一つだった。特別に同情するわけでもなく、ただ静かに拓也は美雪の眼球を見つめている。そこに世界を救う鍵があるのだと言われても、今の自分なら信じたかも知れない──そんなことを考えて、一人苦笑した。
 誰にも世界は救えない。
 終局に向けてゆっくりと傾斜していくこの世界を、今更どうこうできる人間などいるはずもないだろう。
(……世界終局宣言、か)
 もうじき、世界が滅びる。
 それは、世界各国の人間が、それぞれの場所で一斉に悟った事実だった。
 もうこれ以上世界は保たない──いずれ世界は崩壊する。学者が予見したわけでもなければ、アメリカ政府が隠し持っていた情報というわけでもない。まるで降って湧いたように突然に、全人類が気付いてしまったのだ。世界中の主立った政府、研究機関、学者達が、ここまで見事に意見を一致させたことはかつてない。
 あと一年も待たずに、世界が終わる。核戦争でも大地震でも隕石の衝突でもなく、ただ時計の電池が切れるようにぷっつりと途切れる。
 どんなに遅くとも一年以内に。
 早ければ三ヶ月も経たずに。
 世界は崩壊すると、一人残らず悟ってしまった。
 結果だけを述べるなら、人類は驚くほど静かに破滅の運命を受け入れた。頻発していた諍いや民族紛争は、西欧諸国の力を借りるまでもなく自然と終結を迎えることになる。世界終局宣言が発令された直後に各地で発生した暴動も、一ヶ月と待たずに沈静化の道を辿った。
 どんなに抗っても世界は滅びる。
 どうしようもなく、人類は死滅する。
 それが絶対的な事実として認識される頃には、人々は皆疲れきっていた。そして示し合わせるわけでもなく、ただそれぞれが互いに決めたのだ。
 今まで通りの生活を、今まで通りに続けていく。
作品名:この雨が止む頃に 作家名:名寄椋司