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刻の流狼第三部 刻の流狼編

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「何が出来なかったんだ」
「ソルティーは俺の目とか、髪とか見ても、ぜんぜん驚いたり、気味悪がったりしなかったのに。俺はあの時……」
「驚いて、気味が悪かった?」
 ソルティーの言葉に恒河沙は肩が微かに震えた。
 他に言葉も、仕種も無く、それが恒河沙の答えだった。
 ソルティーは何も言えなくなった彼に首を振って、諦め気味に煙を吐き出す。
「それで、もう嫌になったと言う訳か」
「……違う」
「気味の悪い奴の傍に居たくないから、さっさとミルナリスに私を引き渡して、ハーパーに言われたからと納得して終わりにしたい訳だ。そんなに私の傍に居たくなければ、今直ぐ契約を解除して」
「嫌だっ!!」
 恒河沙は大声でソルティーの言葉を遮り、大きく頭を振った。
「嫌だ嫌だ嫌だっ、俺は絶対に帰らないっ!! 俺はずっとソルティーの傍に居るって決めたんだ! 一緒に居られないなら死んだ方がましだっ!!」
 一気に噴き出した涙に気付きもせず、握り締めた拳を自分の脚に叩き付ける。
「誰にもあげたくないし、ずっと一緒に居たいっ! 仕事辞めても、絶対に俺はソルティーと居るんだっ!!」
「なら…そうすれば良いだろ」
「……ソルティ」
 耳に届いた言葉が信じられなくて、恒河沙は恐る恐る彼の方へと顔を向けた。
 ソルティーはその時俯いていた。前髪の隙間から見える彼の口元は、僅かに苦しげに歪められていて、火の点いたままの煙草を握り締めた拳も、何かに耐える様に微かに震えている。
 あまりにも辛そうな様子に恒河沙はまた言葉を失う。戸惑いもあった。
 今もう一度呼びかけて上げられた顔が、もしもこの間の様に怯えた様な物であれば、何と声を掛ければいいのかと。
 そんな躊躇いの中で立ち尽くしていると、床に握り潰されて火が消えた煙草が落ち、
「私の……」
 迷いながら発している様な声と共に、また腕に大きな手が絡み付いた。
「傍にいてくれ」
「ソルティ……」
「まだお前が私の傍に居たいと思ってくれるなら、居てくれるだけで良い」
 やっと上げられたソルティーの顔には、あの怯えは浮かんでいなかった。しかし以前の様な強さや優しさとも違う、触れると壊れてしまいそうな笑みが浮かべられていた。
――何だろ……すげえ胸が苦しい……。
 目の前にいて、しかも傍に居てくれと言ってくれている人が、何故か遠くに感じる。
 放っておくと消えてしまいそうな不安が過ぎり、居ても立ってもいられない気持ちに後押しされる様に、恒河沙からもソルティーに手を伸ばそうとした。
 その腕が不意に引かれ、気がつけばソルティーの膝の上に戻っていた。驚いて上げた顔は、包み込む腕によって温かい胸へと誘導された。
――本当に何をしているんだ私は。
 恒河沙と須臾が居れば、これからも同じように彼等との違いに苦しむのは目に見えている。また同じように勝手な感傷によって、彼等を傷付け自分も傷付く日が来るだろう。
 そして必ず、
――別れなくてはならないのに……。
 確実にその為の準備をしなければならなかった。
 彼等との違いをハッキリと感じ、それを理由に確固たる線を引き距離を取れば、別離の苦痛は確実に軽減出来たはずだった。
 にもかかわらず、腕の中にある温もりを手放したくないと切に思う。
「ソルティー……良いの? 俺ソルティーの傍に居ても良い?」
「ああ」
 不安を抱えながら呟かれた声を、明るい響きにしたい。泣きそうな顔を笑顔に変えたい。
 たったそれだけを思い浮かべながらソルティーは頷いた。

――そうか、そう言う事か……。

 自分の中に在った何かに今気付き、ソルティーは小さく笑いながら恒河沙を抱き締める腕から力を抜いた。
「それとも、やっぱり私の事はどうでもいい?」
 先刻とは違った冗談混じりの言葉に、恒河沙は上げた顔を横に振った。
 ソルティーはその答えに満足して、恒河沙の頬を濡らした涙を指で拭う。
「まだ大事でいてくれる?」
「うん、ソルティーが一番大事。一番大事で、一番好き」
「私もだよ」
「へ……」
 嬉しそうに微笑むのが信じられなくて瞠目する恒河沙に、ソルティーは彼の手を取って、痛々しい包帯を優しく撫でた。
「お前が大切だから、あの時自分で出た。お前が怪我をするくらいなら、何がどうなっても構わないと思ったんだ」
「ソルティ……。だけど俺……、俺だってほんとは……」
「うん?」
「……恐かった。俺の剣……変で……、変な力持ってて……だからその力使えば、きっと彼奴やっつけられたのに、ソルティーの事護れたのに……それなのに俺……ソルティーに嫌われたくなくて、今度こそ気持ち悪がられるって思って……」
 恥ずかしさと後悔しか感じられない傷を隠す様に握り締められる拳。
 同じ気持ちを持ちながらも同じようには出来なかった事が、例えソルティーが許してくれても恒河沙には重くのし掛かってくる。
 再び流れそうになる涙を拒んでギュッと目を瞑っても、瞼の中は情けないほどに熱くなるばかりだ。
「例えお前がどんな力を持っていても、それが恒河沙なんだと思うだけだよ」
 ソルティーは俯きそうになっていく恒河沙の頬に触れ、片方の手で片眼を隠す布を取り去った。
「もし今ここでお前の両目が開いても、記憶が戻って私を忘れても、恒河沙は恒河沙だ」
「だけど……」
「それとも、やはり今の私は気味悪くて違って見えるかな?」
「そんな事ないっ!!」
 恒河沙はまた力一杯に首を振って、今度こそソルティーを真っ直ぐに見つめ返した。
「ソルティーはソルティーだ。あの時は驚いたけど、だけどもう何があっても驚いたりしない!!」
 決意を込めて恒河沙は大きな声で宣言し、しかしソルティーはそれを否定する笑みを漏らした。
「思うよ。まだ他にも秘密が有るからね。だから無理は言わない」
「大丈夫! 俺な、決めたんだ」
 そう言った途端、恒河沙は妙に自信たっぷりに笑った。
 何故かソルティーはその笑みを見て、そこはかとなしに妙な危機感を感じた。嫌な自信だが、こういった時の予感は大抵当たる。恒河沙が何を決めたかを聞かないに越した事はないのは判っていたが、同時にそれを彼が言わない筈がない事も判っていた。
 そんなソルティーの予測通り、恒河沙は彼の首に思いっきり抱き付いて、自分なりに考えた答えを出した。
「俺をソルティーにあげるんだ。そうしたら、俺はソルティーのだから、ソルティーと一緒で、同じだろ? だからこれから絶対大丈夫なんだ」
「……………………………………………………………………あげる?」
「うん、俺を全部あげる。だから貰って」
 静まり返った部屋に、恒河沙の自信に満ちあふれた言葉が響いた。結局須臾がどんなに説得をしても、“あげる”作戦は一番の方法だと感じたらしい。
 だがソルティーの返事はなかなか貰えず、暫く沈黙が包んだ。
 そして、
「ハ……ハハ…ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
 ソルティーは虚ろな笑い声をあげ、顔を引きつらせた。
――須臾に殺される。
 脳裏にはその光景がありありと浮かび上がり、次第に顔色が悪くなる。
 一方恒河沙は自分の最高の提案に、須臾と同じ反応をする彼に首を傾げた。
「駄目?」