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しぶとく生きる

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『しぶとく生きる』

 若山泰三はずっと歳をとりたくないと思っていた。歳をとれば、臆病になり、偏屈になる。何よりも若さに嫉妬するからだ。
大学の助手時代、研究室の大御所といわれた名誉教授山下武雄にこっぴどく怒鳴られたことを、今も昨日のことにように覚えている。
「山下先生は偏屈なくそじじいだ。歳はとりたくないな。歳をとればとるほど、臆病になり、偏屈になる。何よりも若さに嫉妬するんだ」と怒鳴られる度に、その夜、友人と酒を飲み交わしながら老教授Xを罵倒した。その彼も、罵倒した山下先生の年齢になった。だが、若山は山下先生のように大学に残らず辞めた。後進に潔く道を譲ったのではない。夏に脳梗塞で倒れ、幸い一命は取り留めたものの、居残って学問を続けられるような状況ではなかったからである。

 病院に入院していたときである。
寝ている傍らで、娘たちが遺産の分配のことでもめていたことに腹が立った。そして、三人の娘に向かって、「お前らに財産は残さない、もう帰れ!」と怒鳴った。長女と次女は似たり寄ったりの性格で、売り言葉に買い言葉で、「分かったわよ。帰るわ。もう二度と来ない」と怒って帰った。三女だけが戸惑った顔して、「もう少しいる」と言ったが、「一緒に帰れ!」と返した。それからだ、偏屈なじじいと言われるようになったのは。しばらくして孫さえ寄り付かなくなった。もともと子供は好きでなかったので、さほど苦にはならなかった。

 脳梗塞になってから、言葉も笑顔もうまく作れなくなった。周りはそう見ていたが、正確にいえば、脳梗塞になって、明らかに悪くなったのは脚だけである。昔から、しゃべりは下手で朴訥でぶっきらぼうな言い方をした。口も悪かった。気配りが足りず、気の利いたセリフも言えなかった。愛想笑いもできなかった。脳梗塞を境にして、みな、少しひどくなった程度である。脳梗塞で倒れて、生死をさまよったとき、直ぐ先に死があることに気づいた。そして、『どうせ老い先が短い身だし、無理に相手にあわせたり、媚びたりすることもない』と悟った。それゆえ、ひどくなったように見えるかもしれないが、ただ単に周りに対して、前よりもさらに配慮しなくなっただけのである。

 病院を退院してからの彼の日課は、まず貯金通帳を点検することから始まった。貯金通帳の点検が終わると、散歩をする。夕方になると、近くのスーパーで刺身を買って、五時頃から晩酌を始め、八時には寝る。それが変わらぬ日課だった。休日だろうとなかろうとあまり関係ない。
 ときたま、末っ子である三女が来て、洗濯やら掃除をしてくれた。三女以外訪ねてくる者はいない。

 いつからか日記を書くことも止めた。日記をつけるのを止めたのも、遠出をしないのもみな脚のせいにしていた。だが、本当は日記を書くことや旅行することに意義を感じなくなったのだ。何しろ、ほんのちょっと先には死があるのだから。いっそのこと、その一歩先に行こうかという誘惑に駆られることもあるが、踏み出す勇気がなかった。若かりし頃、山下先生に対して、よく老醜なる言葉を使ったことを思い出した。「歳は取りたくない。できるなら七十歳を過ぎたら、潔く死にたい。頭がぼけ、呂律が回らず、脚を引きずってまで生きたくない。それは老醜極まりないから」と。だが、その老醜に極まりない存在になってしまった。分かっていたが、どうすることもできない。ただなす術もなく時間だけがゆっくりと過ぎていくだけである。

 長年連れ添った妻は、脳梗塞で倒れる二年前、がんで死んだ。彼女はよく人生を四季になぞらえた。死ぬ間際、「今は冬のようだ」と言った。「冬枯れの木に葉が一枚も残っていないように、人生の最後には何も残らない」と嘆いた。当時は、何を下らぬことを言っているのだと笑ったものが、いざ自分が同じような境遇になると、そのことがよく分かった。笑ったことを申し訳ないとも思った。

 春になり、家の近くの川辺では桜が咲き始めている。そんな麗らかな朝、若山が散歩すると、いつも桜を観ながら散歩する老婆に出くわした。
若山が「いつも、散歩していますね」と声をかけたら、
「ええ」と老婆と返事をした。
「桜は好きですか?」とぶっきらぼうに聞いた。
「もちろんよ、ぱっと咲き、ぱっと散る。まるで人生のよう……でも、私はしぶとく生きますけど」と老婆は笑った。背は曲がり、白髪頭もずいぶん薄くなっている。それでいて、にこやかなで顔も生気にあふれている。
「しぶとく、か……」と若山は絶句した。
「何か良いことありますか?」
「桜が見られるでしょ? 毎年、それだけでも十分でしょ。それに近くの畑で野菜を作っているの。余ったら、近くの児童施設に分けてあげているの」と笑った。
その顔は皺くちゃだ。きっとこの老婆なら、脚が動かなくなっても、這ってでも生きるだろうと思った。若山は自分自身のことを考えた。後、どれだけ生きられるか。五年か、いや十年か……何れにしろ、そんなに長くはない。だが、すぐに死ぬわけではない。その残りの人生をどう生きるか。自分も老婆と同じように僅かな楽しみを頼りにしぶとく生きればよいだろうと思った。しかし、その僅かな楽しみが今はなかった。恩師山下がずっと大学に居座った理由がよく分かった。大学を引いたら何も残っていなかったからだ。
 ふと数少ない友人の一人が無償でボランティア活動していて、冗談半分に誘われたのを思い出した。その友人が言っていた。
「人間というのは弱い。自分自身のためだけで生きられるのはほんの一握りだ。しかし、人のためなら生きられる。だから、死ぬまでボランティアをしようと思っている」
 明日でも、その友人を訪ねようと思った。自分に何かできることがないかと相談するために。

作品名:しぶとく生きる 作家名:楡井英夫