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夏の色

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夏になったので、葉書を買った。絵葉書でもなんでもない、ただ白いだけの紙切れだ。
 その年の最初の蝉の声を聞いたら、それを買うのだと決めている。この小さな買い物のために、わざわざ50円玉を用意したりする自分が少し可笑しい。
 風のよく通る、家の中でも殊更涼しい場所で、なんでもない黒いボールペンを取り出す。それを滑らせて描いた言葉も、毎年かわりばえしない。こんな内容なら誰が出しても同じなんじゃないだろうか。そんなことすら思ってしまうほどの、ひどく味気ない代物だ。
 あのひとは、こんなものにどんな色を見るんだろうか。
 それを想像することが、俺の夏の楽しみ。



 もう、何年も前の夏のことだ。
 俺はまだ中学生で、大きくなりきらない身体と母親に良く似た女顔がコンプレックスで。
 いつもどこかでイライラしていたように思う。不安定な子供だった。
 長い夏の休みに、家族と居ることに辟易していた俺を連れ出してくれた人が居た。
 その人は母の少し歳の離れた弟で、つまり俺の叔父にあたる人だ。
 彼と母は、仲のいい姉弟だった。画家という職業の少々変わり者である叔父を、母はとても可愛がっていた。

 彼と二人で山の中の静かな別荘で過ごしたのは、たった一週間かそこらの短い時間だった。
 小さな荷物と一緒に窓からそっと抜け出して、溶けそうな日の光の中小さな車で待っていた彼のもとに走った。初めての『家出』に俺の気分は高潮していて、その車がどこをどう走って行ったのかさえも覚えていない。

 叔父はとにかく俺にやさしかった。やさしい顔で笑ったし、俺のいうことには大概頷いてくれた。俺の他愛ない話を聞いてくれて、子供じみた苛立ちもそっとなだめてくれた。
 俺は小さなころから、彼のことが大好きで、母に叱られるたびに彼の元に泣きつきに行った。
 そっと撫ぜてくれるてのひらが、あの夏だけは少しぎこちなく、震えてさえいたのはきっと気のせいなんかではないと思う。

 まわりには緑しかないような場所で、俺は小さな子供のようにして過ごした。
 川で魚を取ってみたり、草の上で昼寝をして、カブトムシを追って走ったりもした。
 叔父はただそれをずっと見ていた。やりたいようにやらせてくれた。それがどれだけ俺を甘やかしたか知れない。
 夕方になると、叔父はたった一つ俺に頼みごとをした。

 『そこに座って。少しの間じっとしていて』

 そう言って、柔らかなソファに俺を座らせた叔父は、その正面に設えられたキャンバスに向かい、小一時間のあいだ筆を滑らせる。
 いつもはやさしく、下がり気味の叔父の目が、集中するとスッと鋭くなる。
 真剣な眼差しが、寂しさとか哀しさとか、そんなもので彩られていたことを、そのときの俺は知っていた。俺を助けてくれた彼こそが、なにかしらの助けを待っていたことを俺は知っていたのだけれど。俺にはどうしてあげたらいいのかなんて、まるでわかりはしなかった。
 ただ、叔父から与えられるものを全て享受して、その中でゆったりと泳ぐのはひどく心地のいいことだった。


 七日目の朝、目を覚ますと枕元に叔父が立っていた。
 俺は驚くより先に、彼の目から零れ落ちる涙を見つけては慌てるばかりで。
 どうしたの、どこか痛いの、と。小さな子供でも思いつくようなことしか言えない俺に、かすれた声がただ一言。ごめん、と呟いてもう一粒涙が落ちていった。
 呆然とすることしかできない俺に背を向けて、彼は部屋を出た。そして母に電話をかけた。


 その日のうちに怒り心頭の母が迎えに来て、二人揃ってしこたま叱られた。
 心配したのよと目に涙を溜める母を見たら、俺の中のくだらない苛立ちなんてものはあっけなく崩れていって、俺は馬鹿みたいに泣きながら謝った。


 そうして緑色の夏が過ぎ去ってから、叔父はすっかり俺の前に姿を見せることはなくなった。
 あのとき過ごした山の中の小さな家で、創作活動に没頭している、らしい。

 俺はそれが寂しくかった。でも、あの緑のなかで震えていた彼のてのひらを、あの朝にこぼれた涙を思うと、気軽に会いになんて行けなかった。だからせめてもと、その次の夏に彼に宛てた葉書を書いた。
 気の利いたことなんてひとつも書けなかったそれに、返事が返ってくることはなかったけれど。
 時々一人で彼に会いに行っている母によれば、彼はその葉書をとても喜んだ、らしい。

 だから俺はこうして、今年も彼に葉書を出す。



 あの夏の後で知ったことだが、叔父は風景画専門の画家なのだそうだ。
 それを聞いたときに俺は、なんだか泣きそうになってしまった。

 その後、一度だけ叔父の作品を見に行った。
 名前も付けられないような綺麗な色で描かれたキャンバスの中に、あの夏の緑が確かにあるような気がした。




 今になって、そう、今になって思えば、あのときの叔父はもしかしたらとんでもないことを考えていたんじゃないかと、そんな風に思う。

 だって、やさしすぎた。俺を見る彼の眼差しは、度を越してあまりにもやさしかった。
そして、悲しかった。

 それは叶わない恋の悲しさだったのではないだろうか。
今では、そんな風に思えるんだ。




 今年の葉書も、彼に届くだろうか。
 喜んでくれるんだろうか。それは、彼のキャンバスで何色になるんだろうか。
 そんなことばかりを思う。

 でも今年はちょっとサプライズで、葉書と一緒に俺もあっちに着きたいと思っている。
 こんなことしたら迷惑だろうか。
 でも、泣いてくれたら嬉しい。なんて、俺も相当おかしいんだろう。


 しょうがないわねと呆れた母は、俺とそっくりな顔で笑った。
作品名:夏の色 作家名:もちな