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桜の下の秘か

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 翌日以降も彼女は山に来た。そして二、三言交わした後、各々勝手に過ごす。
 僕は大概読書。彼女はそこらを散策し、時には持参したらしい本を並んで読んだりもした。
 そうやって同じ午後の時を過ごす。
 帰りはやはり僕が先に山を降り、彼女を置いてくる形にはなったが。
 ただそれだけのことだったが、間違いなく今までの人生の中で一番幸福な、充実した時間だった。
 そうして過ごすうち、山の桜は今まさに満開の時を迎えた。
「それは教科書?」
 彼女は僕の手元を覗きこんできて尋ねた。 
 僕が頷くと、彼女は嬉しそうな声を上げた。
「教科書なんて見るのは久しぶりだわ」
 法的に定められた義務教育は尋常小学校まで。この辺りはそれ以上の教育を望むことのできる環境の家は少なく、高等小学校まで進めれば良いほうだった。中学や女学校まで進むことの出来るのはごく少数だ。彼女も尋常小学校までしか通わせてもらえなかったことは、ここ数日で知った。
「貴方は中学に通っているのよね」
 女が首を傾げる。それと共に相変わらず結われることのない髪が揺れる。
「じゃあいずれはもっと上の学校へ進むの? 一高とか松本高校とか、それとも士官学校とか」
「そんな大層な所に合格出来るほど優秀じゃない」
 言って教科書を閉じて脇に置き、満開の桜を見上げた。
「そうかしら? でもこんな山の中でも勉強するほど熱心じゃない。勿体ないわ」
 彼女も桜色の振袖が汚れるのも気にせず地面に屈み込んで僕の顔を覗き込んできた。
「……でもいつか、此処を出て行くの?」
 か細い声がそう訊いてきた。
 その黒目がちな目がじっと僕を見つめてくる。
 僕は彼女の視線から逃れるようにじっと頭上の桜を見上げたまま答えた。
「いつかはそうしたいと思っている。中学を卒業したら、どこか遠くの学校に行くか働きに出たい。祖父を説得するのは骨が折れそうだけれど」
「お祖父様は説得を聞き入れるような方?」
 彼女の言葉に無言で首を横に振った。
 結局のところ僕の人生は家に、祖父に握られている。たとえ有名な高校や士官学校に合格したところで、僕が手元を離れることを了承するとは到底思えない。
「お祖父様のもとを離れたいんじゃないの?」
「離れたい」
 短く答え、瞼を閉じた。 
 離れたい……否、自立したいと言うべきか。
 自分のことを自分で決め、自分で責任を負える人間になりたい。家を、祖父の元を離れ、自分になりたい。いつまでも祖父の操り人形のままではいたくない。
 だが今のまま祖父といたのではそれは難しい。
 このまま中学を卒業して、いずれは祖父の権勢を更に強めるに適した家の娘と結婚させられ、家長として一生この家と祖父に縛られて生きることになるのは目に見えている。今でこそ祖父の支配に反発心を覚えることができるが、僕はその支配下に生きることがどれほど気楽で安全であるか知っている。
 こうして過ごしていればいずれはこれが当然の道であり、自分の好きなように生きようなどとは思えなくなってしまう気がする。そうして腑抜けてしまうのが怖いのに、僕は既に祖父に正面から逆らうことは出来ない。
 今だって、僕は祖父に一番言いたいことすら口に出来ずにいる。
 幼い頃から刷り込まれた家の絶対、怒れる祖父の恐ろしさを前に意見することなど出来ない。
 目を開けば桜の花びらが散っていく。 
 満開に咲き誇った桜は後は散っていくだけ。
 ふいに右手にひやりとした感触があった。
 右手の上に添えられた、真っ白い手。桜色の振袖から伸びた、白い綺麗な手。
「――私と此処を出ましょう」
 彼女はまっすぐにその双眸を向けてくる。
「此処を出て、どこか遠くへ行くの。貴方のお祖父様の力が及ばないような所。お祖父様だってこの辺り一帯でこそ力を持っているけれど、少し離れてしまえばただの老人よ。だから貴女のお母様を連れ戻すことを出来ない。遠く離れた地にまでその力は及ばなかったから」
 彼女の真摯な言葉に声を失った。
「私と此処から出ましょう。出て、貴方と一緒に生きたい」
 凛とした声が静かな山によく響いた。
 重ねられた白い手が、強く僕の手を握り締めてくる。
「夜、村中が寝静まったら線路まで歩くの。そしてそれをずっと辿っていって、日が昇り始めたら鉄道に乗りましょう。そうすればきっと知っている人に見咎められる心配もないから。少し歩いた村の駅からは東京にも行く列車が通っているのですって」
 東京。
 僕を捨てた両親が住む地。
 祖父と家を逃れた母が居る場所。
 きっとそうすれば、祖父も知っている人間もいない場所で生きることが出来るのだろう。そこでなら僕らは共に生きられるのだろう。そうすれば、真実を知る人間は僕ら二人だけになるだろうから――。
 彼女はまっすぐに僕を見据えてくる。
 本当にどれだけ見ても飽きることなどない、とてもとても美しい人。
 たった一週間、この山で時間を共有出来た最初で最後の人。
 そんな彼女から目を逸らし、絞る様に声を出した。
「……駄目だ」
 彼女の双眸が揺れる。
「だって貴女は――」
 満開の桜が散っていく。
 轟音と突風が桜の花弁を巻き込んで僕らの間を突き抜けていく。
 僕と彼女の間の時が止まる。
 彼女は大きな目を悲しげに揺らし、小さな赤い唇でぎこちなく呟いた。
「知っていたの?」
「最初は知らなかった。僕は貴女の存在すら知らなかった」
 言葉にしていけばいくほど、胸が酷く痛んだ。 
 哀しげに曇っていく彼女の表情を見て、この満開の桜の下で暴いてしまった秘密を口にして、たまらなく胸が痛んだ。
「僕は自分以外のことに関心がなかったから、何も知らなかった」
 関心がないままだったら、きっと知ることはなかった。知ろうともしなかった。
「だけど貴女が帰る場所を見てしまった……」
 その言葉に、一瞬彼女の表情が凍りつく。
 だがすぐに今にも崩れそうな儚げな笑みを浮かべた。
「そう。迂闊だったわ。貴方にだけは見られないように注意していたはずだったのに……ここ数日はずっと浮かれてしまっていたからね。失敗だわ」
 桜が散っていく。
 桜に創られた異界が砕けていく。
 僕らだけの理想郷が、終わる。
「知らないままだったら、貴方は私と生きてくれた?」
 真っ白い頬を涙が伝いながらも、彼女は笑って訊いた。 
 その問いに頷くと、僕の頬も目から溢れ出たものが伝った。
「だけど僕では貴女を辛い目に遭わせるだけだ」
 彼女を幸福にすることは出来ない。それどころか要らぬ苦労ばかりを掛けてしまうことは想像に難くない。
「……臆病者」
 低い声に顔を上げると、彼女は両目いっぱいに涙を溜めて僕を睨んでいた。
「何のかんのと理由をつけて、貴方は結局自分の知らない外の世界を恐れているだけでしょう」
「そんなことは……!」
 それ以上言葉は続かない。
 ない、と言い切れるだろうか。
 だって本当に僕が彼女と共に生きたいのなら、此処を出てその後の苦労を厭わなければ、どんな場所でも彼女と共に居ることだけを望むのなら、僕は今すぐにでも彼女と共に此処を出ていくだろう。
 だけど現実には二の足を踏む自分が居る。
作品名:桜の下の秘か 作家名:初瀬 泉