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四月八日のこと

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  『四月八日のこと』

 私はある年の四月八日を今もよく覚えている。空が青く晴れて、風の強い一日だった。学校は午前中で終りになり、急いで帰ってきたつもりが、家人はリヤカーを引いて畑仕事に出払ってしまったらしく、家には雨戸が立てられていた。中はがらんとして、時々風が戸に当たっては、がたがたと鳴る。

 私はどうしようかと考えながら、ふと、あることに気がついた。

 今日は四月の八日である。今ではとっくに廃れてしまったろうが、私の村には四月八日に寺の本堂に集まって甘茶を飲む習慣があった。

 お茶を入れた丸い蓮の花のような器が本堂に用意され、中にお釈迦様の像がひとり黙然と立っている。わきにひしゃくを置いて、それで茶をすくってお釈迦様の頭にかける。それから自分も飲む。後から聞くと、それは花祭りといって釈迦の誕生を祝う行事だそうである。

 お茶は甘いというよりほろ苦かった。けれども寺の境内に子供が集まるというそのことが変にうれしかったのである。

 けれどもその日の私は違っていた。ちっともうれしくなかったのである。むしろこのまま戸の閉まった暗い部屋でじっとしていたい気持ちがあった。私は出かけないことにした。もちろんそれだけの理由はあった。カバンの中の新しい教科書が気になって仕方がなかったのである。

 その頃のわが家には「家の光」(知っているひとにきいてください)以外に本というものがなかった。だから私の読書の欲求を満たしてくれるものは、年に一回のこの時しかなかったのである。私は初めてこの時間を大切にしたいと思った。

 私は一つ一つ、本を手に取って眺めては置き、その中からまず国語の本を読み始めた。

「夏の河口」、生徒が中学一年生のときに書いた作品、と断り書きがある。変わりゆく河口付近の晩夏の風景を淡々と描き、そのせつなさが心にしみて来る。

「流氷」、原田康子作。北海道の春は流氷の音で始まる。私は薄暗い部屋の中で確かに流氷の音を聞き、海を渡る風を感じた。

 それから…それからしばらく時間が経った。私は寺の境内に来ていた。時間が遅くなったせいか、境内は人もまばらで知った顔は一人もいない。おそらく近隣の村から来た人たちなのだろう。近くで寺があるのはここの村だけなのである。私は仲間のいないことに寂しさを感じながら、お釈迦様の像にお茶をかけた。

 その時である、私の向かい側に白いワンピースを着た女の子が立っているのに気がついた。女の子は、ひしゃくで像にお茶をかけている。何げなく見た手に、みぞれがあたっている。さっきまであれほど晴れていた空から、みぞれが落ちている!驚いて顔を上げると、みぞれはあたりに降りしきっている。

 ところがその子に動じる気配はない。私の驚きを察したのか、その子は私のほうに顔を向けた。その時の顔を私は一生忘れない。

 悲しみをたたえた目。厳しく、何かを問いかけるようなまなざし。それを包む張り詰めた美しい顔。

 私ははっと心を打たれて身じろぎもできなかった。

 だが、私の記憶は、この場面をあざやかに映し出したまま、ここで終わっている。

 夢だったのである。私はいつの間にか寝入っていた。

 体は冷えきっていた。なんとなく気になって外を見ると、風は止んで穏やかな春の夕刻が近づいていた。

 私はいまでも時々この日のことを思い出してみる。わたしの読書の原風景として。

 (覆された宝石)のやうな朝
  何人か戸口にて誰かとささやく
  それは神の生誕の日。
            〔天気 西脇順三郎〕
作品名:四月八日のこと 作家名:折口学