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イドの水底に映す

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古びた木造りの家の広い庭の真ん中に、その井戸はある。水はとうの昔に枯れていて、使い物にはならない。この家に越してきたときから、何度も私は井戸を覗き込んでいる。底が見通せたことは一度もない。
 井戸の底にはなにがあるのだろうか。枯れ果てた草花か、動物のなきがらでもあるのかもしれない。ただ硬い土があるばかりかもしれないし、ごつごつとした石に覆われているのかもしれない。
 どこかで聞いた話では、井戸の底には死体が入っているという。似たようなもので、宝物が隠されている、なんてものもある。どちらもほぼ噂だろう。そんなものは与太話。実際に誰かが死体を捨てたのかもしれないし、宝物を隠したのかもしれない。けれども、ほとんどは井戸の底に対する好奇心から生まれた、ただのお話。
 覗き込んでも、ぽっかりと暗い穴が広がるだけ。昼も夜も、ひたすらに深く暗い井戸の底。私はいつも、井戸の底に何があるのかを、知りたいと思っている。死体でも宝物でも、ごみでも何でもいいのだろう。暗く深い底には、絶対に何かがあるはずだと信じてやまないのだ。

 仮に、井戸の底には死体があるとしよう――なら、イドの底には何があるのだろう?

 むき出しになった自分がいるのだろうか。日常生活の中では埋もれてしまって、本人すらも気付かないような、ささいな感情。ストレスや、欲望。そんなものが、渦巻いているのだろうか。本当の自分なんて、むき出しにでもならないとわかりはしない。怖いけれども、私はそれをも見てみたいと思う。井戸とは違って、イドの底にはたっぷりとした水がたまっているのだろう。澄んでいるかもしれないし、底がわからぬほどに淀んでいるのかもしれない。ゆらゆらと自分の内をたゆたえば、イドの水底を見ることができるのだろうか……

 私たち家族がこの古い家に引っ越してきたのは、二年ほど前になるだろうか。過労で父がなくなってしまい、母、兄、私に妹。家族四人で母方の祖母が持つこの家へとやってきた。私たちが住む以前に誰かに貸していたらしく、電気も水道も通っていて、不自由は特になかった。少し不便といえば、交通面くらいで。山に近いところにあるので、バスなどがほとんど通っていなく。商店街などもけっこうな距離を移動しないといけなかった。それでも、母は毎日働きに行き、兄は通信制の学校の課題をこなしながら、アルバイトもこなしている。主には母が働いているのだけれど、今の家族の柱は兄だった。父がこの家にいたとしても、兄の方が大黒柱というものには向いていたかもしれない。
 私たちの母には、浪費癖があった。自分で稼いできた分を盛大に使うだけなら、問題はなかったのだけれど。父が稼いできた分まで使ってしまう。それなりに、母は稼いでいたのだけど、それでも使ってしまう量の方が多く……父は一生懸命働いていた。母も、それなりに働いていた。
 母は自分を着飾ることが多かったけれど、私たち子供にもよく色々なものを買い与えてくれた。浪費癖があるだけで、性格は悪くなく、むしろ優しい母だったから、私たちは母のことを嫌いではなかった。どうしようもないその癖は、なんとかならないかと、兄はよく頭を抱えていた。
 この古びた家に越してきてからは、母の浪費癖は少し落ち着いてきていた。さすがに大人一人で子供三人の面倒をみるのは大変なのだろう。できるかぎりの節約をしても、少々苦しいのは事実。それでも、毎日の生活はそれなりに居心地がよかった。
 母は主に夜の仕事をしていたので、帰りが遅くなることが多かった。そのせいで妹がよく淋しがっている。こんな生活が続くのだろうと私は思っていた。いつかは、私も妹も、兄も働いて。そうして暮らしていくのだと。
 平和すぎる日常の中では、小さなストレスや不満なんかは底の方へと沈んでゆく。底が高くなってきたころ、ようやく気付くのだろうか。小さなことでも気になって、イドを覗き込んでしまうのだろうか。水底には、ろくなものが映ってはいないというのに。

 それは、本当にささいなことだった。私の就職先が決まり、残りの高校生活を持て余していたころ。しばらく落ち着いてきていた母の浪費癖が、少しずつ戻りはじめていた。最初は、ちょっとしたアクセサリー。次に、質のいい化粧品。その次には、高価で豪華な洋服……今の仕事場に必要なのかどうかはわからなかった。お金を使うのは、やはり楽しいのだろう。母は上機嫌だった。にこにことしながら、何かほしいものはある? と私たちによく聞いてきた。私も妹も、特になにもねだらなかった。兄にいたっては、仏頂面で母をたしなめていた。家計が苦しいのは、全員がわかっているはずだったから。そうして、だんだんと母の帰りは遅くなり、朝方に帰ってくるのが普通になっていった。

 私と碧也が作った料理を、天音と三人だけで囲む。あいさつをしてから、いつものように食べ始める。そうしていると、妹が食べながらぽつりといった。
「最近、母さんの帰り、遅いね」
 そうだね、と私は返事をした。兄は眉を寄せたまま食事を続けている。きっと、仕事が忙しいのよ、と天音に言い聞かせる。まるで小さな子をなだめているようだと思った。
「忙しいにもほどがあるんじゃないか。最近、妙に遅いし、化粧も濃い」
 普段と同じ、低い声で碧也がいう。怒っているわけではないようだが、気に入ってはいないみたいで。そんな兄の様子に気付いているのかいないのか、天音がいう。男の人でも、できたかなぁ、と。
「まぁ、一応母さんも女性だしね……ありえなくはないけれど」
 私はそういうと、ちらと兄の顔を盗みみる。そのはずだったけど、ばっちりと目があってしまった。
「別に、それは構わないんだよ。ただ、いくらなんでも使いすぎだろう」
 そういわれて、今朝の母の姿を思い出してみる。どぎついんじゃないかというくらい、濃いメイク。口紅がたっぷりと塗られていた。髪にはゆるくパーマがかけられて、ふんわりとしていた。ああ、まるで恋人に会いに行くようじゃないか。
 口を動かしながら、天音がいう。
「わたしはねぇ、綺麗なお母さんも好きだよ。でもね、エプロン姿の方が好きだなぁ」
 外にいるよりは、家にいてほしいのだろう。
「最近はあんまり家にいないから、ちょっと退屈。たまにね、お父さんがいたらなぁって思うよ」
 ごくり、と音を立てて飲み込んでから、妹はそういった。それを見て碧也がたしなめる。
「天音」
「何? お兄ちゃん」
「口の中のものは、飲み込んでから話そうな。つまったりしたら、大変だろう」
 そういうと、兄は妹の髪をくしゃりとなでた。そうされた妹は、うれしそうに笑った。
「あと、父さんの事は仕方がないんだから、あまりいわないようにな」
 わかった、といって、妹は食事を続けた。
 仕方がない、といった時の兄の顔が、私は気になった。言ってることとは裏腹に、顔が歪んでいたから……ほんの少し。まるで、仕方がないなんて思っていないかのよう。深く聞くつもりはないけれど。
 今はほとんど父さんの代わりみたいになっているから、兄も色々と大変なのだろう。
「まぁ、無駄遣いについては俺から母さんに聞いておくから。それでいいよな、雫音?」
作品名:イドの水底に映す 作家名:東雲咲夜