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ちかのにな
ちかのにな
novelistID. 31054
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一度は憧れるモンじゃない?

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いかにも体に悪そうな灰色の煙の中に、彼はいた。
短くなった煙草を片手で摘むようにして持ち、
蔓の巻き付いた窓の格子にのけ反ってもたれ掛かるようにして座っていた。
天を仰ぎ見て目を細め、時々片手の煙草を口に押し当てては

スーッ

と、細々とした煙を吐き出している。
そのたびに彼を取り巻く灰色の空気がざわめき、
吐き出された煙はゆらゆらと空中をさまよいながら
やがて彼を包むその灰色の空気へと馴染んでいった。


「また吸ってるの、くっさいなあ。」


空気と煙が完全に馴染もうとしたところを、すかさず
切り裂くようにずかずかと部屋へ上がり込んでいき、ぼやいてみせる。


「ん、うん。」


私の存在に気付いた彼は、これ以上吸えそうにないほど短くなった煙草を
窓のサッシに押し付けて揉み消した。
このアパートの大家からもう何度も注意を受けているというのに
彼がいつもそうやるものだから、サッシにはもう
窓が締まらなくなるほどの吸い殻がびっしりと詰まっていた。

汚いなあ

心の中でそう呟きながら冷蔵庫に手をかけ、
中で空っぽのまま冷やされていたタッパーを取り出し、
代わりに持ってきた惣菜入りのタッパーを二段目の棚に横一列に並べる。
冷蔵庫を閉じて振り返ると目の前に突然と彼の胸板が現れ、
驚いた私は思わずひっという声を上げた。


「あの、そこ開けてみ。」


驚く私をよそに、彼は何食わぬ口調でそう言って
冷蔵庫脇の、四角い蓋付きのごみ箱を指さす。
訳もわからず「これ?」と指さして尋ねても彼は無言で頷くのみ。
何かとんでもない悪戯でも企んでいるのではないかと考えつつ、
私は恐る恐るごみ箱の蓋に手をかけた。




悪戯だ。


ごみ箱には腐って異臭を放つ食物の塊が五、六個ばかり、
ビニル袋にへばり付くようにしてそこに佇んでいた。
変色し黴が生え、もはや食物としての原型を留めてはいなかったものの、
それは確かに先程私が冷蔵庫から取り出した、
空のタッパーに入っていたものに違いなかった。


「そういうことだから。」


呆然とする私に彼がそう言い放ち、また新しい煙草に火をつける。

意味がわからなかった。


「何、美味しくなかったの?それとも食べ切れなくて棄てちゃった?
  ねえ、そういうことってどういうこと?ごめん、私よく意味がわからない。」


半狂乱気味になって詰め寄る私に壁際まで追いつめられた彼は、
自室の古びた土壁に背中を強かに打ち付けた。
ゴンッ、背骨が壁を打つ鈍い音が部屋中に響く。
その響きに合わせ、部屋中を漂う灰色の空気が揺れた。

チッ、汚ねーなー。

彼は左手の人差し指と中指ではさんでいた煙草を吸い直し、
上を向いて煙をか細く吐き出す。


「重い。」


いつも何も言わない、無口な彼の、精一杯の抵抗であった。


「そっか、そうだよね。確かに重いわ、私って・・・ハハ」



私は静かに後ずさる。



「うん、分かった。さよならだね。」


彼から離れ、背後にあるキッチンのシンクのふちに手をかける、
私のその一言に安堵したのか彼は俯き、小さくため息をついた。
私はぼやける視界の中、彼を真っ直ぐに見つめて呟く。


「さよなら。」







鞄からバイブ音が聞こえた。
洗っていた手を乱暴に振り適当に水気をきると、
まだ濡れたままの手で鞄を開け、携帯を引っ張り出す。
画面の「着信」という表示に一瞬躊躇ったが、
すぐに通話ボタンを押した。


「・・・もしもし莉帆?」


少し、声が上擦る。


「あーもしもし?いやさー、バイトのシフトの事なんだけど・・・」


親友の暢気な口調に少し胸を撫で下ろし
肩と耳とで携帯を固定しながら、蔦と吸い殻に囲まれた窓へと腰掛ける。
下を覗くと、大家さんがいつものようにアパート前を掃いていた。
電話に適当に相槌を打ちながら、
私は足元に転がっていた新しい煙草をくわえ、火をつけた。
静かに息を吸い込めば、今もなお部屋を占領している眼前の灰色と、
同じ香りが肺を支配してゆくのがよく判る。


「あれ、もしかしてあんた煙草吸ってる?」


ポチャン、どこからか水音が聞こえた。


「うん」


彼がしていたように人差し指と中指で煙草を持ちながら、
携帯を持ち直して頷く。


「珍しい。嫌いじゃなかったっけ、煙草。」


「んー、彼氏が吸ってるから慣れたのかも。それにさ、」


そこまで言うとまた煙草を押し当てて、肺に煙を溜めた。

ポチャン、また水音が響く。

彼がしていたように格子へともたれ掛かり、
天を仰ぎながら灰色の煙を吐き出す。


「それに、一度は憧れるモンじゃない?」


そう言って私は目を閉じ、
水を張った浴槽に腕を浸して死んでいる、
彼の唇からよだれが滴り落ちるのを想像した。