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後ろ姿の少年に6 【事件】

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 驚いたのは子豚である。後ろから追いかけられているうえに、新手が二人、前から迫って来る。子豚はあわてて、左の垣根の隙間から再び農家の庭先へと逃げ込んだ。わたしも遅れてはならじと、狭い垣根に無理やりからだを押し込んで通り抜けようとする。途中、木の枝が顔に跳ね返って額と頬に引っかき傷ができる。だが、そんなことはかまっていられない。垣根と建物の狭い間をあくまでも追って行く。庭先に出た。豚はどこに行ったろう?そう思って見まわすと、視界の左はしに、騒ぎを聞きつけて集まってきた割烹(かっぽう)着姿のおばさんや作業帽をかぶったおじさんが三、四人。右はしには、思いのほか敏捷な、さっきのじいさんと母が姿を現す。豚はその二方向の敵陣の中間を真一文字に、走る、走る。走って、庭を斜めに突っ切り納屋のわきへと逃げ込んだ。納屋はうまい具合に裏が坂下になっている。坂といっても小山の斜面であるから、勾配は結構きつい。猫なら難なく登れもしようが不器用な子豚には登って足をとられること必定である。おそらく一回りして表に出てくるしかないだろう。よし、反対からまわれば捕まえられる。わたしは走る方向を九十度左にとって、早足で来るおじさんやおばさんを尻目にかけ、納屋の反対脇から裏手にまわった。案の定、黒い子豚が向こうからまっしぐらに走ってくる。そのすぐ後ろから麦藁帽をかぶった、さっきのじいさんが、背負っているかごを上下に揺らしながら一生懸命駆けてくる。

「おおい、そこでつかまえろおお!」

 じいさんはわたしの姿を見つけるや、苦しい息の中から、ふりしぼるように叫んだ。言われなくてもここで捕まえなければ、もう捕まえるチャンスがなさそうなのは、わたしにも十分判断できた。何としてもここで捕まえなければならない。わたしはその場に止まると両足を踏ん張って立ち、両手を広げて歯を食いしばった。その間にも豚はわたしに向かってどんどん迫って来る。しかも驚いたことに、じいさんが豚との距離を縮めて来る。豚はわたしが通せんぼの格好をしていようと、そんなことにはお構いなく、猛然とすっ飛んで来る。豚とわたしの距離がいよいよ三メートルを切ったときである。豚は突然真っ黒な闇となってわたしを飲み込んだ。わたしは、豚のあまりの勢いに圧倒され、まるで全速力のスポーツカーか何かに跳ね飛ばされて、自分が粉々にされるような錯覚に襲われた。

 わたしはわけの分からぬ叫び声をあげて、斜面を駆け登った。その下を一瞬のうちに豚とじいさんが駆け抜けた。

「いくじがねえぞ!」じいさんの声が走った後ろから転げ落ちてくる。じいさんと豚は、折り重なるようにして納屋の角を曲がった。と、同時に、ぎゅうっという音がしたかと思うと、ごろごろ転がる気配がして、それからぴたりと静かになった。ややしばらくして、
「きいっ、きいっ」という鳴き声が聞こえてくる。

「つかめえたぞう!」ぜいぜいするあえぎの間から、かすれた声が聞き取れる。

 ああ、じいさんが捕まえてくれたんだ。わたしは、じいさんの方へ行こうとする。しかし、足の力は抜け、目もぐるぐる回り、心臓は口から飛び出しそうで、はなはだ気分が悪い。その場に座り込んでしまった。後から追いついてきた母に抱きかかえられて、じいさんと豚のいるところへ連れて行ってもらった。ほかのみんなも集まってきている。

 豚はじいさんの手を振りほどこうと懸命にもがいている。しかし、じいさんの鍛えた腕は、そんなことにはびくともしない。母はじいさんから豚を受け取ると、じいさんだけでなく、騒ぎを聞きつけて集まってきた人たちに丁寧に頭を下げて礼を述べた。

 わたしは不思議でならなかった。いつもは、お荷物でしかないわが家の騒動に、どうしてこれだけの人が集まってくれたのか。豚が逃げたとき、おそらく村のものは誰も手を貸してはくれまい。この豚は自分で捕まえるしかないのだ。そう自分に言い聞かせた。それが一人集まり、二人増え、しかも最後には、いかに元気とはいえ、七十過ぎのじいさんがタックルしてまで捕まえてくれたのが、実は、心ひそかにうれしかった。いつも村人たちを快からず思ってきた自分が、このときばかりはさすがに悪いことをしていたと、反省させられたのである。だが、いかに村人が、わが家の突発事件で手助けしてくれようとも、わが家と村との関係がそれで改善されるはずはなかった。結局わが家は、また一つ、村に迷惑をかけたことにしかならないのだ。

 おそらく、このことは、しばらく村人の話題に上るであろう。その話題の中で、黒豚を前にして敵前逃亡を働いたわたしが、物笑いの種になるのは、どうしたって避けられない。いや、あの元気のいい黒豚を捕まえてもらったのだから、物笑いの種になることくらいは我慢もしよう。だが、どうにもいけないのは、じいさんの言った、あの一言である。

「いくじがねえぞ!」

 わたしは、いたく傷ついていた。ちくしょう!と思った。じいさんに、ではない。自分にである。手を広げて豚の前に立ちはだかりながら、豚の勢いにたじろいで逃げた自分に、いかに怖かったとはいえ、ほとほと愛想が尽きた。そのとき、「いくじがねえぞ!」という、あの畳み掛ける一言である。自分の思っている言葉が声になって聞こえてくるときのあの恥ずかしさ! あのときばかりは、そばに穴があったら、本当にそこに入って一週間は出てこなかったろう。母もおそらく、恥ずかしかったことだろう。わたしは母から、ひどく叱られることを覚悟していた。だが母は家に戻ってからも決して叱らなかった。むしろ、豚の前によく飛び出してくれたね、と言ってわたしの労をねぎらってくれた。思うに、豚から逃げたときの、わたしの恐怖で引きつった姿を見て、母もこの子に農家を継がせるのは酷だと、判断したものに違いない。なぜなら、そのあとすぐに、黒豚の子供は仲買人に引き取られて行き、それからしばらくして、母は農家をたたんだからである。

 それにしても、わたしは人間であれ何であれ、あの黒豚ほどの必死の形相に、以来、出会ったことがない。