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陶酔

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男は外に寝ていた。三十代なるかならないかくらい、しかしその髪には既に白髪が交じっている。何故そんなところで仰向けになっていたかは男にも分からぬ。記憶にあるのは、自室で手紙を認めていたことだ。夜だった。気づいた時にはそこで空を仰いでいた。

 空、と言っても晴れ渡るような青空ではなく、夜の空だ。月はこうこうと照っている。男と月との間には藤棚が腰を据えていたので、その全貌を見ることはできない。しかしその一部からでもわかる程度には輝いていた。蔦の隙間から見える月は、男の目にはこれ以上ないほど美しく見えた。しかしだからと言って、立って全貌を見ようとする気は起きない。藤棚が見る限りどこまでも広がっているから、と言うのもあるが、全てが見えてるわけではないからいいのだ。その全体像が見えないほど、完璧から程遠いほど、それは現実味を失って、その代わりにそれを埋めるように幻想を纏う。それはもとより絶対に手の届かない高嶺の花である。それがより幻想性を伴ったところで誰が困るだろう。誰がそれを望まないだろう。男はこっそりと神秘性の原因とも言える藤棚に感謝した。

 しかしその藤棚もただ普遍性を称えるだけのものではない。盛りの頃のはずなのに、何故かその蔓にあるのは一房のみ。その一房がまことに素晴らしい。中心に一房陣取っているのである。それは月光を受けて殊更美しく見えた。
 男は未だ起き上がることなく宙を見ていた。たまに吹く風だけが、時間が過ぎていく証拠だ。深く息を吸うと、夜のにおいが鼻の奥のほうをくすぐった。ハチであろうか、アブであろうか、男の耳に虫の羽音が掠めた。それは警告音だ。しかし男は然して気にする様子もなく、宙を見続ける。その警告は通じない。ざあざあと風がなく。そして凪ぐ。警告音は消える。

 全てが死んでしまったような静寂に、男は黙って目を閉じて、そして開けた。

 男には以前妻がいた。今はいないが、美しい人だった。彼女はどこぞの放蕩息子と情死を遂げたのだ。夫であった男を置いて。噂によると、その情死の相手方は死に切れずに、未だのうのうと酸素を吸って二酸化炭素を量産しているらしい。しかし男はそんなことどうでもよかった。別にその放蕩息子のことは憎くもなんともない。ただ、情死で自分だけ生き残るというのはどういう気分なんだろうか、そう思っただけだ。二人で死んだ場合、確実に不幸なのは死んでしまったほうではなく死に切れなかったほうだ。つまり妻は幸せだということになる。その事実以外に、何が必要だろう。男は妻のことを愛していなかったわけではない。むしろその逆だ。愛しい人には幸せでいてもらいたい、そう思うのは変だろうか。ただ一つ、一つだけ欲を言わせてもらうなら、男は妻の死に顔を見たかった。男が着いたときにはもうすでに妻の体は灰燼に帰していたのだ。愛し君へ。男は心中で呟いた。何故ここで妻のことを思い出したかと言うと、一房咲き誇る藤に彼女の姿を見たからで。

 愛し君へ。

 呟くと、ずるずると蔓は形を成すが如く動いて、世界を飲みほさんとした。男の背の下を這い、月を消し、結局蔦はすっぽりと世界を飲み込んだ。と同時に、男の眼前には唯一の一房が迫っていた。自分が迫っていっているのか、花のほうが迫ってきてるのか、男には判断がつかなかった。もしかしたら両方かもしれぬ。しかしそれは、この場において最もどうでもいいことの一つだ。どちらにしても結果は同じだ。

 いつの間にか藤の花と男の顔は、触れるかもしれぬと言ったところまで近づいた。そこまで近づいたまま、一向に藤は動かない。男は顎を引いた。自然、睨みつける格好となる。しかし別に男は怒っているわけではない。ただ美しい藤をもっと近くで見たかっただけなのだ。眼前にあってもまだ足りない。ならば、どうしたらその欲は満たされるのだろうか。男はその術を知らない。知らないで、それでも相手の幸せを願って、そのうち相手が消えてしまった場合、どうすればいい?男はふと不思議に思った。この花は、絶対に男のものにはならない。

 藤の蔓はそのうち渦のように回転し始めた。揺れる世界の中で、藤の花は彼の耳元で囁く。貴方をお慕いしておりました!その言葉はエコーのように男の耳に絡みつく。これは呪いだ、そう思いながら男は落ちていった。

作品名:陶酔 作家名:さらば