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ラチエン通り

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茅ヶ崎駅の海側への階段を降りると、街は咽返る暑さである。何かの営業が汗を拭き拭き道往く人に団扇を配っている。眼を細め駅前ロータリーを見渡すと別段これといった特徴のない地方の駅前の景色そのものである。小さな本屋があり酒屋があり煩いパチンコ屋があり、見飽きた看板の居酒屋がある。
ただ、この街の住人は、この暑さも苦にもせずむしろ夏を謳歌しているかのように見える。海岸は街と繋がり駅に繋がり、街全体が海岸そのもののようである。海岸まで松林のある「ラチエン通り」を行くと狭い路を日焼けしたビキニの娘がビーチクルーザーで走り抜け、初老の裸の男女や若者が海岸までの路をサーフボードを片手に抱えギシギシと錆びた自転車を漕いでいる。そして手をつないだ麦わら帽子の親子の後姿に笑い声が聞こえる。この「ラチエン通り」という名は松が丘に別荘を持っていたドイツ人貿易商ルドルフ・ラチエンに因んでいるらしい。

十分程歩き、涼がほしくてコンビニのドアを開けると、レジ係りの年配の女性の話す言葉にハッとする。もし東京のオフィス街で聴いたとしてもオヤッと耳をたてたくなるほどの品のいい山手言葉である。言葉の端々に虚栄ではないゆとりのようなものを感じて愕かされる。何故かこの街は洗車を忘れたメルセデスを砂だらけのビーチサンダルで運転するような、或はどこから見ても日焼けした地元の漁師にしか見えない老人が突然ハムレットを謳い始めても誰も動じない、ただ穏やかな笑顔で拍手するような鷹揚な印象がある。

この通りには小説家の愛したメンチカツを揚げる昔ながらの小さな肉屋があり、我侭なスコッチの注文に応えた町の酒屋がある。真夜中小説家は独り書斎に垂れ込め窓の外の松林にベトナムの密林の銃声を聴いたのでなかろうか、時には癇癪持ちの女房から逃避する尤もらしい理由を考えたりしたのだろう。この書斎で何百本かのスコッチが空き、小説家は躁と鬱との波間で言葉を捜す。言葉は言葉の海からピンセットで摘まれ、並べられ、糊付され、或いは捨てられ、言葉の研磨に夜を過ごしたに違いない。そして小説家は亡くなるまでの十五年ほどをこの地で暮らした。

ふと「ムッシュ・・恥ずかしゅうてかなわん。窓しめてんか」小説家がウインクした。


昔のサザンの曲に「ラチエン通りのシスター」という曲があった。たしか桑田の中学生の頃の淡い初恋を書いた曲だったと思う。そのシスターは今でもこのラチエン通りに住んでいるという。そして今ではあのパシフィックホテルは取り壊され、小洒落た低層の住宅街に建替えられている。

海岸沿いの134号線を横切ると、防砂林の切れ目の四角い海の中央に烏帽子岩が見える。
作品名:ラチエン通り 作家名:石田健介