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すおう るか
すおう るか
novelistID. 29792
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白い華 ~華の劈開(へきかい)~

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天地が逆さまになるくらい、動揺した事があるか。
まるで唐突に世界がくるりと変わるのは眩暈に似ているようだが、眩暈ほど仄々とした優しさはない。今までしっかりと踏みしめていたはずの大地が天空に消え、鈍色(にびいろ)の重たい蓋となり、視野に映るのはまったく別次元の虚無の宇宙となるのに似ていた。
それが私を襲った時は、まさにそのような感じだったのだ。
だが、私の世界は逆さだったのだな。……いや、本来の姿をしていなかった、のだ。
それなのに自分の世界が逆さになっていると意識されないまま、目の前にいかにもと言いたげな破廉恥な虚像を結んで、視野の全部を覆い隠してしまっていた。そして、その目の前の世界をただ受け入れてしまう私がいたのだ。どんなに破廉恥であろうと、それが異常なことであるとどうして私にわかるだろう。尋常も異常もすべからく内包した世界が私のすべてであると、世の中の有り様であると幼い昔からそう信じていたのだから。
君にこの空しさがわかるだろうか。
世界と自分とが隔絶されていると知った時の気持ちを、理解してもらえるだろうか。
私は世界と潔く融和し、何の境目もなく存在していると信じていたのに、その夢は破られたのだ。
 自分の認識に異常があったと断罪されたときの私は、日当たりの良いベンチに腰掛けて微睡(まどろ)んでいる無防備な状態に、理不尽な豪雨が襲いかかったようなものだった。
打ちかかる雨。雨。雨、雨……。
それは遙か昔の流行り人形のように、首が振動で上下にスイングするようなスコールだった。音を立てて叩きつける豪雨にわんわんと頭が揺れ動いた。稲妻の閃光が暗雲に走り、負の放電の真下に私がいた。慈雨ならば甘んじて受けただろう。だがその雨は決して慈悲など持ってはいなかったのだ……

高沢辰馬はその文面を読んでしばらく呆けたように紙面に視線を落としていた。真っ白で何の意匠もない便箋に、微かに丸みのある文字がきっちりと並ぶ。後の文面には勝手な手紙をわびる言葉と葬儀に参列してくれたことへの謝辞があった。それを読み終えると便箋を元の封筒に収めて胸元にしまった。
それから目を上げた。目の前の事務所の窓が、明るい光に照りかえっていた。まぶしいなあ。ああ、光はまぶしいんだ。そう思う。あの人にも今、この光は注いでいるだろうか。それともまだ雨が降り続いているのだろうか。辰馬はこの手紙の主の面影を思い浮かべた。


 *

ユイの足元の広がっているあれは、仰向けに倒れている男の、胸に突き立ったナイフの柄から滴り落ちている血に違いなかった。広いリビングの照明は絞られていて、灯りは足元の間接照明だけの頼りないものだったが、紛れもなく鮮血であるのがわかった。男のはだけた白い胸元に吹き出した赤いとぐろは、男の体を這い回るだけでは飽き足らず、床のペイズリー柄のカーペットさえも蹂躙していた。男は肩ほどの茶髪を乱し、妙な具合に指の曲がった手を投げ出している。足はねじれ靴が片方脱げていた。
しばらくの間、この状況が神津毅(かみつたけし)には飲み込めなかった。数時間の自分の不在がこの男の身にこんな凶行を齎(もたら)していたとは、想像できるはずもない。
できるならこの男と娘を二人きりで残して外出するのは控えたかったところだが、そうせずにいた自分のうかつさを呪った。
のろのろと足を運んで照明をつける。一瞬、白く惑乱された視野にはっきりとユイの姿が捉えられた。
ユイが刺したのは明らかだった。ユイのオフタートルのセーターの胸元にも点々と赤黒い染みが滲んでいた。服の模様と見まがうものではない。
だが、俯きかげんにした頬に長い髪が幾分乱れて流れているほかは、ひどく取り乱した様子も見えない。この凶行の後とは思えないほど静かな視線を神津へ向け、ユイは佇んでいた。ただ、胸を抱くように回したその両手もべったりと血糊で濡れていた。男が何か不埒な行為をしようとしたのだろうか、だが、ユイの服にも顔にも暴行されたような気配はなかった。
なぜ、男を刺したのだ、と神津は詰め寄った。
「お父さん、空也(くうや)は私を愛していると言った。結婚してくれとも言った」
 空也だと、そんな呼び方をいつからしていたんだ。ユイ。神津は眉間をひそめた。
「私も空也を愛していると思ったから、そう言ったんだ。そうしたら、愛しているその証拠を見せろと言った。証拠が必要だと言ったのはこの人なのだ。私は証拠など必要ないと言った。でも、この人はどうしても証がいると譲らなかったんだ。
どうしてなんだろう、空也はお金が証になると言った。私は違うと思った。金など証になるものか。随分話したよ。でも、どう言っても、証がいると言うんだ。だから、私は殺さなくてはならなかったんだ。
ひどい仕事だった。空也はなかなか死ななかったんだ。何度も、何度も、だからナイフを突き立てた、疲れたよ、お父さん。……そう、だよね。愛していたら殺す。殺さなきゃ、愛していた証にはならないから。死体となったこの姿が証拠だから」
静かな声でユイは同意を求める瞳を神津に向けた。だが、ユイの言葉が神津の意識に上り意味を成すまで時間がかかった。語られた言葉が耳朶を滑って、背後に抜けていくようだった。ユイが確かにこの男を刺したのだろう、だが、なぜなのか、その理由は神津の理解の外にあった。
男の息はとうにないとわかってはいたが、神津はしゃがみこむと男の頬に手をあてた。ねじれた口元に赤い筋が滴っていた。見開いた目は血走ってどこを見つめているのかわからなかった。
「どうして、こんなことを、ユイ、いったい、どうして……」
神津の声は息を継ぐのもままならぬほど震えていた。目の前のものが信じられなかった。彼の愛娘が、利発なあの娘がやってしまったことだと、どうして信じられるだろう。
「何を言っている。どうしてって、理由は今言ったじゃないか。愛しているからだ。彼が証を求めたからだ。お父さんが、教えてくれたことだ。私の知識はすべてお父さんが教えてくれたことじゃないか。お父さんこそ、忘れてしまったのか、私に教えたことを」
心底理解しかねるという表情を浮かべて、ユイは神津をねめあげた。
「何だって、何を言っている、私が、そんなことを?……」
神津毅の足元に真っ赤な帯が達しようとしていた。よりによって、こんな男をユイが好ましく思っていることに腹はたててはいたが、まさかこんな結果になろうとは思いも寄らなかったのだ。神津はこの男をどうするべきなのか迷った。だが、迷ったのは瞬時だ。ユイを人殺しの罪人にしてしまうことなどできるわけがない。どんな犠牲を払っても、ユイを守らねばならない。ならば。
この男がふらりとこの別荘にやってきた時点で、神津はいやな予感を持った。男はどう見ても品行方正な男には見えなかったのもあるが、何か今までに出会ったことのない異質な匂いを漂わせていたからだ。
男はミュージシャンだと言った。ちょっとは名が知れているのを鼻にかけて一のことを十にも百にも割り増しして吹聴して回る輩に思われた。