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愛の重さ

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『愛の重さ』

 時計の針は午前零時を回ろうとしていた。賑わっていた街も静かに眠りにつこうとしている。
 ひとりの男が小さなカフェバーのカウンタに坐っている。歳は二十五、六といったところか。ジーパン姿で、髪はぼさぼさである。タバコに火を付けた。一服吸って吐いた。灰皿の中に吸殻がいっぱい詰まっている。
女が店に入って男の隣に座った。彼女はメガネをかけているせいか知的な雰囲気がして、そのうえ背も高く美しい。
 男はバーボンを飲んでいて、もうかなり出来上がっている。女を一瞥すると、
「今夜はとことん飲もう」となげやりに言った。
「あなたはもう充分飲んでいるはずよ」
「これからさ」
 女はワインを注文した。
「どうして会社を辞めたの?」
「この国にも、あの会社にも優秀な技術者は掃いて捨てるほどいるんだ」
「あなただって、優秀だったわ」
「そうかもしれない。が、多数いる中の一人に過ぎない」
 彼はコンピュータ技師としての地位を捨て、今はフリーターである。いろんな遊びを覚えた。酒も女も。
「これからどうするの?」
「分からない」

 二人とも黙った。
 女が「私のことをどう思っているの?」と切り出した。
「どうって?」
「私はあなたのことが好きなの」
女は酔った勢いで言っているように見えた。
「そうか」と男は呟いた。
「あなたの好みと違うことも知っている。でも、私は好きなの」と女は続けた。
「嫌いならはっきり言って欲しい」
「今夜は金曜日の夜だ。そんな話は止めよう」
「そうね……でも」と女がなおも話を続けようすると、
もう一度、強い口調で「止めよう」と男は言った。
 彼らは恋人同士だ。恋人? 恋人という言葉が肉体関係を意味するなら、当たっている。だが、心はどうだろう……。

 男はどこか遠くに行きたかった。全てと縁を切り、全てを忘れ、もう一度やり直したかった。しかし、あてがなかった。会社を辞めれば、何か見えると思ったのに何も見えてこなかった。四方がまるで見えない壁に囲まれているように思えた。自由がこんなにも重苦しいものとは思わなかった。
「今の俺には何もない。それでもいいのか?」
「うん」とうなずいた。
 女は酔ってきたせいか、帰って眠りたかった。出来るなら彼とともに眠りたかった。

 時計の針は午前二時になろうとした。
 店のマスタが後片付けを始めた。
 男は女を見た。寝ていたので肩を揺すった。女はしばらくして眼を覚ました。
「どこか連れてってよ。面白いところに」
「そんなところはどこにもないさ」と男は吐き捨てた。
「店は閉店のようだ。行こう」と男が立った。
 女が虚ろな眼差しで、「どこへ?」
 男は答えずおもむろに歩きだした。女も立ち上がり、その後を追った。 女は危なっかしい足取りだった。男は立ち止まり、女の肩を抱えた。何ともいえない淡くて香りのいい香水の匂いが彼の鼻を刺激した。そして、重くはない彼女の重みも感じた。
「私たちは終わるの?」
「分からない」と言った。

 男はなぜ会社を辞めたのかを振り返った。
 ある酒席でのことだ。
 宴も盛り上がった頃、彼はひとりぽつんとしていた。そこに上機嫌の上司がやって来た。上司が酒をつごうとするのを、彼は断った。
「酒が飲めないようじゃだめだ」と上司は言った。
 すると彼は、「酒に飲まれるよりましです」と切り返した。
 上司が顔色を変えて、「何様のつもりだ!」と怒鳴った。彼は何も言わず酒席を離れた。
 それからだ。冷遇されたのは。結果的に辞めざるをえない状況に追い込まれた。
会社を辞めてから三ヶ月が経った。会社という飾りをとれ、あらためて自分というものを見つめ直したとき、自分に何もないことに気づいた。情けなくて同時に切なかった。

 女が男の耳元で囁いた、「ねえ、どこへ行くの?」
「帰るだけさ」
「帰るだけ?」と聞き返した。
「そうさ。帰って一緒に寝ようか?」と呟いた。
 すると、女は嬉しそうにうなずいた。
 女は相変わらず男に寄り掛かっていた。この不思議な重さを感じながら男は、それだけが自分という頼りない存在を証明しているように思えた。


作品名:愛の重さ 作家名:楡井英夫