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Slow Luv Op.1

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-2-




〔火曜日〕


「やられた…」
 悦嗣が大きく溜息をついたのは、飲んだ翌日の夕方のことである.
 朝一番で仕事の依頼がきた。どうしても今日ピアノを使いたいから、調律してほしいとのことだった。
 きっと二日酔いになると思って、一日オフにしていた。マンションに戻ってベッドに入ったのが朝の三時半。アルコールはまだ抜けずに残っていて、コンディションは最悪だ。
 そう言って断ると、夕方からでも構わないと相手は答えた。それに大学の恩師の名前を出されて――卒業単位を大目に見てくれた立浪教授で、文字通りの恩師だったことから――断りきれず、引き受けたのだ。
 今日どうしても使いたいピアノの調律を、夕方でも構わないと言うのもおかしな話だと気づいたのは、指定された場所への道すがらだった。
 そして現場の音楽スタジオに着いた悦嗣を、
「どーも」
ニコニコと人懐こい笑顔で、チェロを持った英介が迎えたのである。
 彼の他に男が三人。ヴァイオリン二台にヴィオラが一台。そして部屋の中央に、グランドピアノが据えられていた。
 どう見てもアンサンブルの構成だ。事情が飲み込めて出たのが、肩も揺れるほどの溜息なのである。
「俺は調律を頼まれたんだけど」
「勿論、それもしてもらうけど、でも先に合わせてくれないかな。待ってもらってたから。あ、紹介するよ。ファーストのサクヤにヴィオラのウィル、それからセカンドのミハイル」
「エースケ!」
 英介はおかまいなしに、英語で悦嗣を三人に紹介していく。
「いい加減にしろよ、エースケ!」
 肩を掴んで、自分の方に向かせた。
 舌打ちする音が聞こえた。ヴィオラの男が、不快な顔で悦嗣を見ていた。一言二言、隣の男に耳打ちする。された男は肩を竦めた。この二人は白人で、残りの一人は東洋人である。彼はさして興味もなさそうに、部屋の隅の用意された机の方に向った。
 英介がヴィオラに話しかける。相手はチラチラと悦嗣を見ながら、英語でまくしたてた。
 英会話も早くなるとわからない。しかしその表情から、悦嗣に対する不快感が読みとれる。どうやら代役のピアニストが調律師だったことに、驚いているらしい。
「こいつにピアノが弾けるのか」とでも言っているのだろう。
 このメンバーの中で、英介のポジションはどの程度なのか。困ったような笑顔で、仲間を取り成す英介の形勢は、あきらかに不利だった。
 上背のある白人二人が言葉をたたみかける様と、我関せず的態度の東洋人に対して、だんだん悦嗣は腹が立ってきた。
「楽譜、寄越せ、エースケ!」
 上着を脱ぎ捨てピアノの前に座る。英介が楽譜を悦嗣に手渡す。
 ブラームス ピアノ五重奏曲へ短調Op34――この楽譜面を見るのは十二年ぶりだった。大学三回生の学内演奏会で、英介と組んで弾いたきりだ。
 彼の好きな曲で、アンサンブルするならこの曲が良いと言って、引かなかったことを覚えている。今回の選曲も、彼が噛んでいるのかもしれない。
 悦嗣はどちらかと言うと、ブラームスには苦手意識を持っていた。
 覚えているだろうか、この指が。
 グッと拳を握った。
「とっとと位置につきやがれ」
 チューニング用にA音を鳴らした。ピアノはちゃんと調律されている。ハンマーの重さもほどよく、悦嗣好みだった。
 部屋の隅にいた東洋人がスタスタと位置に着き、チューニングを始めた。後の三人もそれぞれの位置に着いた。
 第一楽章は、ピアノと第一ヴァイオリン、チェロのユニゾンから入る。
――成るように成れだ




 とりあえず全楽章を通し終え、休憩が取られた。
 悦嗣はピアノから離れて、スタジオから出て行った。残った四人は、ドリンクが乗った机の周りに座っていた。
 ヴィオラのウィルヘルム=ブルナーの隣に、英介は席を取った。
「どう、あいつ?」
 額の汗をタオルでふき取りながら、ウィルは英介を見た。
「悪くない。ブランクがあった割にはタッチが荒れてないし、何より耳がいい」
「ミハイルは?」
 第二ヴァイオリンのミハイル=クルセヴィッツは、クッキーに手を伸ばす。
「ファーストのクセをよく見抜いてるよね。って言うか、感性が似てる。タイミングの取り方とか、テンポ感とか」
「さく也とは合うと思うよ。エツ好みの弾き手だから。で、さく也?」
 第一ヴァイオリンの中原さく也は、ミネラルウォーターのペットボトルから口を外した。
「何でもいい。人前で弾ける奴なら、誰だって」
「サクヤも好みなんだろ、あのタッチ? 途中で止めずに弾いたじゃん」
 ミハイルがさく也の背後に回って抱きすくめた。その手を彼が払う。
「何にしても今のままじゃダメだろ。練習させとけよ、エースケ。俺達の足を引っ張らないようにな」
「くっくっく、今日はウィルが足、引っ張ってたくせに」
「あれはだなぁ、どんなピアノが鳴るか気になってだなぁ」
 ミハイルにからかわれて、ウィルは首まで赤くして反論する。
 演奏前の険悪なムードは払拭され、いつもの調子に戻っていた。
 悦嗣は完璧だったわけではない。ミスタッチも多く、強弱・緩急のタイミングのズレも否めない。
 しかし一度も止まらなかった。ミスタッチは巧くカヴァし、耳障りに感じさせない。タイミングのズレは、何の予備知識もなくぶっつけで合わせたのだから、ブランクを考えると仕方がない。 だが止まることなく、弾ききったことは、大して期待していなかった、むしろ、無理に違いないと思っていた英介以外の人間の口を、黙らせるに十分だった。
「じゃあ、彼でいいね?」
「彼で行きたいんだろ、エースケは?」
 ウィルの言葉に英介はにっこり笑って、
「エツに話してくる」
と、部屋を出た。




 喫煙フロアのソファに、悦嗣はぐったりと座り込んでいた。手には缶コーヒーが握られていたが、プルトップは上がっていない。
「つっかれた…」
 煙草を立て続けに二本吸ったせいか、頭の奥がクラクラする。
 あんなに真剣に楽譜を見たのは、大学の卒業試験以来。目と耳と脳みそをフル稼動した気分だ。
「エツ」
 背後で英介の声がした。悦嗣は振り返らなかった。疲労もあったが、怒りもあったから。
「合格だってさ」
 悦嗣の隣に英介が座る。
「何が合格だ。おまえ、わかってんのか? 俺は素人同然なんだぞ。立浪の名前まで出しやがって。いつの間に、そんな小賢しい真似、覚えたんだ」
「エツ」
 もう一本、煙草を咥えて火を点けた。
「おまえはいつも、俺の欲目が過ぎるっていうけど、」
 英介は悦嗣の口から煙草を取り上げて、灰皿に突っ込む。
「彼らがおまえで良いって言ってるんだぞ。ずっと友達やってる俺じゃなく、プロが言ってるんだ。少しは自分の評価を上げろよ。弾けてたじゃないか」
「あれが弾けてたって言うか」
 ケンカ腰のタッチだった。途中で止まるものか…という意地で、ただ弾ききった。あれ以上、英介の困惑した顔を、見たくなかったからだ。
「とにかく、早く代わりをあたれ。義理は果たしたぞ。おまえの超過大評価に対しても、教授の恩に対してもな」
「エツ」
 飲まなかった缶コーヒーを英介に突きつけるようにして渡すと、悦嗣は立ち上がった。
「もうこの話は終わりだ。俺は帰って寝るからな!」
作品名:Slow Luv Op.1 作家名:紙森けい