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Slow Luv Op.1

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〔土曜日〕


”ウィーン東京カルテット+ONE  室内楽はいかがです?”
 このコンサートは曽和英介と中原さく也が出演すると言うことで、クラシック界は注目していた。
 英介は日本人初のWフィルのチェリストであり、その実力は楽団内でも評価が高いと言われている。
 そしてザルツブルグ国際コンクールにおいて、十四歳で二位入賞を果しながら、それ以後表舞台から姿を消して、すっかり忘れられた伝説の中原さく也が、初めて日本で演奏するのだ。
 音楽関係者の関心は、否が応でも高くなる。先に行われた横浜と埼玉のコンサートは、期待を裏切らない出来で、その評判が東京のチケットをソールド・アウトにしていた。
 …という噂は、悦嗣の耳にも入っている。そして噂は本当なのだと、ゲネプロで実感した。
悦嗣は楽屋の鏡の前に座り、自分の顔を見る。
「情けねぇ面だ」
 ゲネプロでの四重奏は素晴らしい出来だった。息の合ったその音は、間違いなくウィーンの音。悦嗣はその中に紛れ込んだ異物で、どうしても聴き劣りするのは否めない…などと口にしようものなら、英介に叱られる。
 すでに最初の曲が始まっている。悦嗣の出番まで、インターミッションを入れて一時間半強というところか。それが終われば、この緊張から解放される。
 ドアがノックされた。
「小夜子」
「久しぶりね」
 ドアを開けると、曽和小夜子が立っていた。意外な訪問に、悦嗣は目を見開く。
「来てくれたのか」
「エースケに聞いたの。久々にエツが弾くんだもの、聴かなきゃ」
 ドアを大きく開け放して、彼女を中に招き入れた。
「ガッカリさせなきゃいいけどな」
「エツは本番に強いから、楽しみにしてるわ。でもひどい顔色」
「緊張してるんだ。吐きそう。コーヒー、飲むか?」
 楽屋に用意されたポットから紙コップにコーヒーを注いで、彼女に渡した。
「自信家のエツにしては、ずい分と弱気ね」
 悦嗣は首をすくめてみせた。
 彼女とは英介の渡欧の際に会ったきりだから、四年ぶりになる。
「変わらないな。編集長になったんだって? おめでとう」
「ありがとう。エツも変わらないわね。なんか若返ったみたい。仕事はどう?」
「まあまあ。これのおかげで商売上がったりだけどな」
 悦嗣はどれだけ強引に――立浪教授にまで手を借りて――英介が、このコンサートに自分を引き摺り込んだか、彼女に話して聞かせた。
「エースケは、エツのピアノ、好きだもの」
と、小夜子は笑った。
「もう始まってるだろ? 聴かなくていいのか?」
「横浜の時に聴きに行ったの。ピアノ五重奏だけ曲目が変わったから、それだけ聴きに来ればいいって、エースケが」
 彼女の口は、ためらいなく英介の名前を語る。二人が離婚調停中だということを、感じさせない。
「聞いたよ、離婚の話」
 悦嗣の言葉に、小夜子は目を伏せた。
「そう」
「なんとかならないのか? エースケはまだおまえに惚れてるぞ」
 上げた彼女の目は笑んでいる。
「わかってる。お互い、嫌い合ってるわけじゃないもの」
「だったら」
「でも、夫婦であり続ける必要もないの。お互い、それがわかってる」
「小夜子」
 言いかける悦嗣の口を、小夜子の人差し指が抑えた。
「これは私達の問題よ。エツは独身だし、わからないでしょう?」
「それを言われると、反論出来ない」
 悦嗣は苦笑った。
 小夜子は部屋の時計を見る。
「そろそろ行くわ。頑張って。大丈夫、エツなら」
「そうかな?」
「そうよ、だって『月島の奇跡』が太鼓判押してるんだもの。それに二人が組むと、無敵じゃない。自信持って。いつもの俺様面してよ」
 そう言うと立ち上がり、彼女は楽屋を出て行った。その後ろ姿を見送って、ドアを閉める。
 小夜子のつけていた香水の、花のような香りが残っている。離婚の話をもっと追求したかったのに、英介同様、上手くかわされてしまった。
 彼女が去り一人になると、吐き気にも似た緊張感が戻ってきた。
 今、どのくらいまで進んでいるのだろう。
「いつもの俺様面…か」
 パンッと、両手で頬を打った。



 暗い舞台裏、悦嗣はインターミッションが終わるのを待っていた。
 借り物の燕尾服は、着慣れないせいか気恥ずかしい。今日はノータイ。スタンドカラーのシャツはスタッドを一つだけ使い、銀色の十字架がついたペンダントをつけろと指示された。ペンダントは演奏の邪魔になるからと断った。開いた胸元が気になるので、もう一つスタッドを付けさせてくれと言ってみたが、却下された。
 あと五分。
 悦嗣は楽譜を小脇に挟み、両手を見た。
「エツ、手、貸してみ」
 いつの間にか英介が、目の前に立っていた。
 言われた通り手を差し出すと、彼は自分の両手で包み込むように握りしめた。その手は温かく、やさしい感触がする。
「やっぱり冷たい。エツは緊張すると手が冷たくなるから」
「そうだっけ?」
 ここが暗くてよかった…と悦嗣は思った。きっと今、赤面しているに違いない。
「でもそういう時って、出来がいいんだよな。エツは緊張したら開き直って、肩の力が抜けるから。今日はいい演奏が出来る」
「呪文みたいだな、落ち着いてきた」
「よかった、いいデビューになるよ」
「何言ってやがる。こんなことは、これっきりだ」
「みんなが放っておかないさ」
「本人にやる気がなきゃ、無意味だろ?」
「やる気になるよ」
 英介は自信たっぷりの口ぶりでそう言うと、手を離した。
「なるもんか」
 本ベルが鳴った。
 英介は袖に向った。チェロ、ヴィオラ、第二、第一ヴァイオリン、ピアノの順で出る。
 悦嗣の前にはさく也。彼は悦嗣を一瞥する。それはいつも通りの表情のない目だったが、かえってそれが英介の手の温もり同様、悦嗣を落ち着かせる。
 この第一ヴァイオリンが、きっと自分を引っ張ってくれる。
「GO」のサインが出て、英介が一歩ステージに踏み出す。
 悦嗣は拳を、グッと握った。




 ヨハネス・ブラームス作 ピアノ五重奏曲ヘ短調作品34
 第一楽章 アレグロ・ノン・トロッポ ヘ短調4分の4拍子 ソナタ形式
 第二楽章 アンダンテ・ウン・ポコ・アダージオ 変イ長調 4分の3拍子 三部形式
 第三楽章 スケルツオ アレグロ―トリオ ハ短調 8分の6拍子
 第四楽章 ポコ・ソフテヌート―アレグロ・ノン・トロッポ―テンポ?(プリモ)―
        プレスト・ノン・トロッポ ヘ短調  8分の6拍子 序奏付きロンド形式
 ブラームスが三十一才の時に完成させた、唯一のピアノ五重奏曲。情熱的でありながらメランコリック、しなやかな情感や諦念といった、後年の作風の片鱗を垣間見せる。この曲は一八六八年にパリで初演され、プロイセンの王女に捧げられた。数多のピアノ五重奏曲の中でも最高傑作と評される、名曲中の名曲である。
 鍵盤に触れた瞬間、悦嗣はブラームスの作り出した音楽の中に取り込まれた。
 自分の指から生み出された音は、四つの弦に吸い寄せられる。
 それは縒り合され、そして螺旋となり、ステージを巡り、ホールを巡る。
 一瞬のようであり、永遠のようであるこの一曲。ただ、不思議と落ち着いていられた。
作品名:Slow Luv Op.1 作家名:紙森けい