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第10

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この「嬰児に復帰す」というのも大事な言葉ですなわち

命に復するということは「常」であり常を知ることが明るです。

つまりここでは、相対知を超えた

絶対知を得ることを述べているわけです。  

以下言葉を変えていますが、基本的には同じことを繰り返しています。

「其の白を知りて、其の黒を守れば、天下の式(のり)と為る」。

白と黒というのも陰陽の関係であって、その二つを押さえることに

よって世の中の規範となることができる。

「天下の式と為れば、常の徳はたがわず、無極に復帰す」。

無極というのは万物が陰陽にわかれる前の状態で

道に近い概念といえます。

これもやはり命に復することだと言うことができます。

「其の栄を知りて、其の辱(じょく)を守れば、天下の谷と為る」。

栄光・栄誉を知る、それに値する存在でありながら

自らの身を逆のところに置くということです。

「天下の谷」については先ほどと同じ。

そして、いよいよ問題の樸が出てきます。

「天下の谷と為れば、常の徳は乃(すなわ)ち足り樸に復帰す」

ということで、第一段の「嬰児」第二段の「無極」と

ぴったり対応している。

ほとんど同じ概念を述べていると言っていいでしょう。

「樸は散ずれば、即ち器となる」。

樸というのは山から切り出した木ですから

それを加工して器を作ったと。

これはもちろん喩えですが、器というのも前に述べたように

「からっぽ」の効用であり道に通じているわけです。

「聖人はこれを用いて、則ち官の長となる」。

それを現実活用して聖人は官の長となって

政治を行なうということです。  

無意味だと思われる所に、その有意義さ有用性を見出す者が聖人

である。






そういうことで先ほどの17章に立ち返ってみれば

あくまで樸を抱いていることがポイントであって

単なる善人では仕方ないわけです。

樸を抱いて政治を行なえば仁義を廃しても民衆はおのずと

孝慈を行なうようになるわけで

単なるボンクラがそんな真似事をしたら

かえって世の中は混乱するばかりでしょう。  

老子の「無為」というのはあくまで樸を抱いた

聖人の政治手法なのであって、庶民や小役人の

処世術ではありません。

しかしながら、まだ疑問が残ります。

なぜ聖人ならば「無為にして、而も為さざるは無し」なのか。

何もしなくても「万物ならび作る」ことになるのか。  

そこでポイントとなるのが28章で繰り返し出てきた

「常の徳」です。

「常の徳は離れず」「常の徳はたがわず」「常の徳は乃ち足り」

と少しずつ表現を変えていますが意味するところは同じでしょう。

この徳というものが、無為が現実に作用する際の大きな鍵を

握っているのですと老子は述べ続ける・・・・・・  

僕がおもうに、いたらぬ、ことに首を入れない・・・   

自分を治めることに専念すればいい・・・   

自分以外を治めるという行為は、支配であるので

そこに争いが生じる・・・・  

いたらぬ入れ知恵をもたないようにするのが

ベターだと言える 日本の諺にも、知らぬが仏とある・・・  

進歩、研究、学術、科学、etc・・・・

何事にも、その理論、真理がそれぞれ存在し

一っきりの絶対の真実はない・・・  

さまざまな、真実、理論の総体が、真実により近いものであろうが

それもまた最後の真実ではない・・・・  

愛もまた定義のできない真理である・・・

愛するがゆえに殺す愛も存在する・・・  

生かすだけが愛ではい・・・・  

量子論が僕は答えてると思う・・・・  

受賞したね、ノーベル賞を・・・    

まっ、おのおの好きな様に、解釈してくれたまえ・・・   

量子論から見れば、真実(正義)はそれぞれの

事象に在る、詰りその道の数だけの正義(真実)がいくつも存在する。

ここを以って、荘子は斉物論を唱えた(万物斉同)みな

が等しい存在である、草も人も空も、物質も。

上善は水のごとし  身体的鍛錬については

老荘思想を体現するには、やはりある種の人生観といいますか

個々人の生き方の問題に関わってくるだろうと思います。

そういうことで、老子を見習ってその人なりの

範疇で三宝を守っていくことなどが大切になるわけです。  

もう少し違う角度から老子は「善」ということについて述べています。

よいことをするのはいい事(あたり前)ですが

実はこの善というのも相対的なものですから

「これが正しい」とこだわるとまた問題が出てきます。

よく間違えるのが、独善・偽善・小善というものでしょう。

独善というのは、簡単にいえば一人よがりですね。

周りはそれを有り難くは思ってないのに、小さな親切

よけいなお世話をする人がいますが、悪意はないの

だけど少し迷惑です。

また、これが少し大きな規模で集団とか組織ぐるみで

行なわれると場合によっては非常に危険です。  

よく思うのがオウム真理教の信者の人たちのことです

あの人たちは元々悟りを目指した修行僧だったわけです。

個人的にはおそらく善人の部類に入る人が多かったの

ではないでしょうか。

それがどうして、あんな恐ろしい事件を起こしてしまったのかというと

その底には「善意」があったわけです。

これは認めがたいところかも知れませんが「地球を救おう」

「人類を救おう」という志があった。

だからこそサリンを巻くなんていう尋常ではない

ことが出来たわけです。

麻原彰光が何を考えていたかは知りませんが

一人ひとりの実行犯の心の中には「善意」があったことは確かです。  

あるいは爆弾による武力闘争なんかもそうですね。

最近は思想的な裏付けがない愉快犯と思われる犯行があって

それは「悪意」ですが、ある種の理想社会の実現を求めた

闘争がかつてはあったわけで、それもやはり「善意」からなるものです。

あるいは、それが国家レベルで行なわれれば戦争という

ことになるでしょう。

そういうことで、この「善」ということについては

本当によく考えなければならないと思います。

上善(じょうぜん)は水の若(ごと)し。

水は善(よ)く万物を利して而(しか)も争わず。

衆人の悪(にく)む所に処(お)る。

故に道に幾(ちか)し。

居(きょ)には地を善しとし、心には淵(えん)なるを善しとし

与(まじわり)には仁を善しとし、言には信を善しとし

正には治を善しとし、事には能を善しとし、動には時を善しとす。

夫(そ)れ唯だ争わず、故に尤(とが)め無し。(老子・8章)  

老子は最もよい善をたとえて、水のようなものだと言っています。

水は、万物の成長を助けて、しかも他と争ったりたりせず

みんなの嫌がる低い場所にいます。

だから、道にちかいということです。

道そのものではないけれど、その性質は道の働きをよく

現すものだということでしょう。

水のあり様をよく鑑み、そのような生き方をすれば

道に沿ったものになるということだと思います。  
作品名:第10 作家名:万物斉同