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冬の鐘

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『冬の鐘』

 半年ぶりにケンイチに会うために、ショウコは大きな鞄を持って列車に乗り込んだ。それだけでショウコの胸は高鳴っていた。会えるのは、彼が帰省する夏と冬の年二回だけだった。残りの日はずっと彼のことを思い続けていた。思うだけで幸せな気持ちになれた。

ショウコは窓側の席に座った。発車を告げるアナウンスが流れた。扉が閉まった。熱いものが胸に込み上げてきた。ケンイチに会うために行く。大好きなケンイチに会いに行く。その胸のときめきは言い表せようもなかった。
 
なぜ会いに行くことになったか。それは一か月前のことである。珍しくケンイチから電話が着た。今年の冬は会えないと言葉少なげに伝えて来た。いつもなら、ショウコは黙って引き下がっただろう。ショウコはいつだって控えめな女だったから。けれど、そのときは違った。
「会いたいの!」と電話を切ろうとするケンイチに言った。
「えっ?」と驚きの声を発するケンイチに対し、
 もう一度、はっきりとした口調で、「会いたい」と告げた。
ケンイチが自分のことをどう思っているのか、白黒をつけたかったのだ。愛しているのか? そうでないのか。実はショウコはある男との結婚の決断に迫られた。決断する前にはっきりさせておきたかったのだ。
ケンイチは何か考えてようだった。
暫く沈黙した後、ゆっくりと息を吐いた後、「分かったよ、一カ月後、会いたいなら、そっちから来いよ」と言った。
 ショウコは「うん」と見えるはずもないケンイチに向かって頷いた。

 それから一カ月が経った。ショウコは一番お気入りのピンクの服を着た。前の日には髪を切った。覚悟を決めたことの表れだった。そうだ、ショウコは藁をもすがる思いで、ケンイチに自分の将来を賭けたかったのだ。
 
 列車が発車した。降り注ぐ雪で窓ガラスが曇っている。雪はますます強く降る。何か先行きの不安を暗示させているようであった。

ショウコのハンドバックの中に1枚の写真が入っている。ケンイチと並んでとった写真である。酔ってはしゃいだときに撮ったものだ。それを取り出して、呟いた。
「もう引き返せないのよ、ショウコ」
ケンイチが“ついて来い”と言ってくれたなら、何もかも捨てて、彼について行こうと覚悟を決めていた。

 叔母がショウコに縁談話を持ち込んだのはもう一カ月前のことである。
「立派な家があって、決して失業しない役所に勤めているの。良い話でしょ? 本来なら、あなたのような人は相手にされないけど……」と相手の写真を見せる。
写真で見る限りでは、ぱっとしない感じがした。それに暗そうである。よくいえば堅実なタイプにみえるが、少しも面白くなさそうである。
「実は、彼は一度結婚しているの。それに五歳になる息子がいる」とため息をついた。
「バチイチということ? どうして離婚したの?」
「分からないわ」と首を振ったが、明らかに何かを知っている目をしている。
 叔母は嘘をつくとき、必ずといっていいほど、視線をそらす。
「嘘、本当のことを知っているのでしょう?」とショウコは語気を強めて言った。
 叔母は意を決したかのように息を吸って言った。
「彼に障害があって足が少し悪いと言っていたけれど、気にすることはないわ。そんなことよりお母さんを安心させなさい。あんたが結婚してくれれば、先方は若干の援助をしてくれるというの。あなたとお母さんが二人どんなに頑張って働いても父親の残した借金を返せないのよ。そのくらい分かっているでしょ?」
 五年前の冬、海に出た父親が時化に遭い溺死した。口の悪い人は“あれは借金を返すために悪天候にも拘らず海に出たのは自殺するため”と陰口を叩いた。確かにそのときの保険によってかなりの借金は消えたが、それでもまだ残っていた。それよりも母親の落胆を尋常ではなかった。昼も夜も泣き続け、急に老けてしまった。
「あんたももう二十九よ。女盛りよ。花も盛り。一番高く売れる時にうらなきゃ」
「母さんは、もう働くことは限界に来ている。先方は一緒に面倒を見てくれるというのよ」
 ショウコは叔母が言うように本当に良い話だと思った。足が悪いのくらい気にすることはない。借金を肩代わりして、そのうえ母親と一緒に面倒をみてくれる。それだけでも幸せだと思った。もしもケンイチという存在がいなかったら、すぐに飛びついたかもしれない。

 ケンイチは小さい頃から音楽の神童とか言われた。一流の音楽家になることが夢だった。そのことだけを夢みて生きてきた。音楽家になるために東京の音楽大学に入った。だが、さほど才能があるわけではなかった。彼は大学に入ってすぐに気づいた。同じように音楽のうまい人間が腐るほどいた。その中から自分だけがと跳びぬけてうまくなるとは思わなかった。それでも夢を捨て切れずにいた。ケンイチは函館で音楽教師をしていた。そんな彼ではあったが、ショウコには光り輝いて見えた。

 函館は坂の多い街である。ケンイチのアパートも坂のあるところにあった。部屋から教会の鐘の音が聞こえ、また青い海も見えた。
 彼が目覚めと、窓を開けた。日が差しているとはいえ、さすがに冬である。ひんやりとした空気がなだれ込んできた。しばらくして鐘の音が鳴った。冬の乾いた空気に鐘の音は軽やかに走った。
ショウコがやってくることを思い出した。タバコに火を付け、昔のことを思い返した。出会ったのは十五歳の時。同じ高校の同じ進学して、同じクラスになったときに知り合った。そして、初めて抱いたのは十八の夏だった。
だが、ケンイチは彼女のことをあまり知らなかった。ずっと付き合っていたのに、何が好きで、何を考え、どんな夢があったか知らなかった。そのことを思い出し、いまさらのように驚いた。
 いつも何かはにかんでいるような笑みを浮かべていた。美人ではなかったが、すらりと体で、どこか日陰に咲く花のような控えめな女だった。深い関係になった後、いつのことだったか、裸になった薄闇の中で「ショウコは朝顔に似ているな」と言った。すると彼女は「嬉しい」と言った。

 ケンイチは部屋を出て、待ち合わせの駅に行った。
 ショウコが現れた。田舎で見るショウコと別の顔があった。田舎にいるときは、いつもはスッピン近かったが、その日は化粧が少し濃くてどこか垢抜けてみえた。
夜、ケンイチはショウコを激しく抱いた。
 翌朝、ショウコはケンイチよりも早く目覚めた。
ふと耳を澄ますと、鐘の音が聞こえた。不思議な音色だった。軽やかな音楽のような気がした。
 ケンイチを揺すって起こした。
「聞こえる。鐘の音がする」
「ここは函館だ。教会があるから」とうるさそうに言った。
「まるで結婚式のときの鐘の音みたい」と弾んだ声で言った。
「鐘の音なんかどこでも同じさ」とケンイチはショウコを抱き寄せた。
「でも、鐘の音を聞いていると、何か魂が揺すられるみたいになるの」と言った。
 ショウコはベッドから出てカーテンを開けると冬の弱い日差しがなだれ込んできた。

ケンイチはショウコを港に案内した。
 風が少しだけ海から引き寄せて来る。
とりとめのない話をした後、二人は黙って海を見ていた。
「俺、アメリカに行こうと思っている」とケンイチが突然言い出した。
作品名:冬の鐘 作家名:楡井英夫