小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

マリナが残した手帳

INDEX|1ページ/1ページ|

 
『マリナが残した手帳』

「理由は聞かないで預かってください」とミズキ・マリナは言って封筒を差し出した。三十五歳のマリナは均整のとれた体に長い髪をしており、その瞳の少女のように澄んでいた。自殺する数か月前のことである。そのとき、何かしら悩んでいたような愁いのある顔をしていた。
「どこか悪いのですか?」と聞いた。
質問に答えず、「私はどんなふうに見えますか?」と逆に聞き返してきた。
「明るくていいお嬢さんに見えます」と答えると、
「私にもいっぱいに悩み事があるんです。誰にも表と裏がありますよね、私は裏を見せることができないんです。それでも表があると信じていたときは良かったけど、今、その表が消えつつあるんです」と微笑んだ。
「それは本当のことかね?」
「冗談です。本気にしないで。そんなシリアスな顔をされると困っちゃうな」と笑った。
「女が一人で生きていくのは大変ですよね」と呟くように言った。
「男もだって同じだ」と応えると、
「私は愛人として生計を立てているんです。最低ですよね」と自嘲気味に言った。
そのとき初めて経済的に自立できないという厳しい現実があったことを知らされた。それが少しずつプライドを浸食し自殺に至ったのではないかと後で推測した。

警察から自殺したという告げられた後、封筒を預かっていることを思い出した。中に手帳が入っていた。擦り切れたB5サイズの手帳である。本のように分厚い。手にすると、彼女の生きていた証のようで、その重さを介して彼女の生のようなものが不思議と伝わってきた。
読んでほしかったから預けた。そう思って手帳を開き読んだ。

手帳によれば、彼女は母親とずっと二人暮らしだった。父親が失踪し、二人は故郷を捨て、東京に出た。母親は夫を憎みながらマリナを育てた。マリナが留学した前、母親は金持ちの男と再婚した。
出発のとき、母親が「音楽家でも、何でもいいから、あなたのやりたいことをやりなさい。お金はやるから。その代り、私は結婚するから、親子の縁を切る。彼の子がお腹にいると言った」と記している。
恐らく、その頃から、マリナは孤独という名の蟻地獄に落ちたのかもしれない。ところどころに寂しいという文字がある。孤独は意識すればするほど、その深みにはまっていく。

マリナはパリで皿洗いしながら音楽家を目指した。コンクールで何度も挑戦したものの、いつも決まって落選した。一年後、パリを離れ、旅に出た。
 ヨーロッパの様々な町を渡り歩き、そして飛行機で砂の国に行った。手帳に宗教のことを書いている。宗教は彼らの生活に密着していて、あたかも、それは体の一部であると。
見るもの全てがファンタステックに映るらしくそのことを手記に綴っている。アラブの海はどこまでも地中海のように青く美しいが、一歩内陸に向かえば果てしない砂漠が広がる。そこは、沈黙した空間に風が走る砂の大地、ヨーロッパとは異質の地、そこで孤独感がさらに深まった。
「どこにも自分の行くところがない」という言葉が何度も綴られている。
どこにも行くところないという言葉に彼女の深い悲しみと孤独が表現されているように思えた。

砂の国を旅した後日本に戻った。自分の居場所を求めて、故郷である秋田、さらに青森、北海道、そして東京と各地を転々とした。
 いろんな職業にも手を染めている。音楽教室のアルバイト、新聞配達、レジ係、喫茶店のウェートレス、ホステスと。
マリナが愛人になった経緯も事細かに書いている。金が無くなり、食うに困っていたとき、初老の男に愛人にならないかと声をかけられた。彼は既にたくさんの女たちを囲っており、マリナもその一人に加えられた。愛し方は実に情熱的でだが、飽きると容赦なく棄てた。それゆえ、女たちは愛され続けようと、犬のような従順さを示した。中には、わざと妊娠しようとした女もいた。あるとき、マリナに向かって、「人は金の魂も売る。お前も同じか?」と聞いた。そのとき、なぜか母親を思い出し、何も答えられなかった、と書いている。

死に至ったのは、母と別れて孤独になったせいでもなく、金持ちの男の愛人となりプライドが壊れたせいでもないことが、最後のページを読んで分かった。
自殺の二か月前、体調が悪くて、大きな病院で検査を受けた。そのとき、“余命がわずか”と宣告されたのである。
「少しずつ死に落ちていくなら、いっそのこと自殺した方がいい。夢が叶わず、自分の居場所もなかった自分の人生は何だったのか」と最後に記している。

マリナはいつも微笑んでいた、それが彼女の印象だった。何気ない路地裏で密やかに咲く花のように目立たないが、控えながら気品があるような印象だった。そんな彼女が深い心の闇を抱えていたとは知らなかった。
 
手帳を母親に届けようと思った。横浜にある母親の家を訪ねた。豪奢な家に住んでいる。もう六十近いはずなのに、まだ四十代のように美しい。
 手帳は渡そうとしたら、彼女の母親は要らないと言った。
「あの娘が何と言ったかは分かりませんが、もう随分と前に縁を切りました。今では、あの娘を産んだという記憶さえ残っていません。その手帳は棄ててください」
二人の間に何があったかは分からないが、母親の強い拒絶の中に想像を絶するような何かがあったと想像することは難くない。

 ふとマリナの生まれ故郷を訪ねてみようと思った。そこは十五まで住んだ村だった。そこに行く鉄道の線路についで聞いたことがあった。
「線路はもう地図にはない」と寂しそうに言った。
「地図にないということは?」
「ずっと前に廃線となったから」
 静かに語りかけるその寂しげな横顔はずっと心に残った。

 夏の日、山間の線路を歩く。
 昼下がりの強い日射しの下、暑い空気は微動もせず、汗が滝のように流れる。
 その線路はもう十年前にから列車は通っていない。線路は錆びて、雑草が生い茂っている。ふと、時間をさかのぼって歩いているような錯覚を覚えた。
マリナはこの線路を走る列車を使って上京した。彼女だけではない、多くの人間を、この線路を走る列車が乗せていった。いろんな夢を乗せて走った分だけ、思い出がそこに残っている気がしてならない。
駅に辿りついた。外見を見ても、駅はずっと使われていないのが分かる。駅の中に入る。想像したよりもひどい。ガラス窓は壊れ、壁に穴が開いている。猫が一匹、暇を持て余した顔で、窓辺で欠伸をしている。自由気儘な猫、ふと微笑んでしまったが、猫を全く無視している。駅を出た。
 マリナが住んでいたという家を探す。行き交う人はいない。その家は山麓にあった。廃屋となって見捨てられているのだろう、もう何十年も住んだ形跡がない。隣の家もそうである。いや、そのあたり一帯がそうであった。彼女が帰る所がないと言った意味がようやく分かった。近くには、墓があって、野草の花がそれを優しく見守っている。
玄関を開けた。壊れた障子戸、止まった時計。ここは親子が出たときに時が止まったのだ。マリナの手帳を玄関先に置いた。それが彼女の望んでいたことではないかと思って。


作品名:マリナが残した手帳 作家名:楡井英夫