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紫の夜語り〜万葉集秘話〜

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文武天皇二年(698年)九月

 月が傾き、軒先が明け方の紫色に染まり始めた。
 紀伊《きい》は朝露に濡れないように薄絹を体に 巻きつけて、宮中の庭を
横切り、女官たちが眠っている宿舎の門をくぐった。
 十五才で持統天皇に仕え始めて五年、宿直で、数え切れないほど早朝の庭を
眺めてきた。秋なら一面の菊花が朝日の中に浮かび上がり、春なら梅の香り
が徹夜明けの頭をすっきりさせた。
 五年の間に、持統天皇は太上天皇となって一線から退き、紀伊は見習いから
正式な女官となったが、庭は相変わらず四季の変化を繰り返していた。
 今は初秋で、萩の花が、盛り土の上から滝のように垂れ下がって咲いていた。

 恋人との熱い一夜の後なら、疲れていても目だけは輝いているはずなのに、
紀伊の顔にあるのは単純な疲れだけだった。
 二十才の彼女には、恋人を作るより重要な仕事があった。
 毎晩のように、持統上皇に昔話を語って聞かせる語り部の勤めである。

 庫裏《くり》ではすでに朝食の準備をする物音が 聞こえていた。
 紀伊が自分の部屋に入ると、御簾《みす》で区 切ってある隣の部屋では
同僚の女官・初瀬《はつせ》と恋人が、人の気配に 気づいて目を覚ました。
「紀伊なの?」
「ええ、今さっき上皇様の御所から下がってきたところ」
「一晩中宿直《とのい》なんて、あなたはよっぽど お気に入りなのね。
上皇様が男ならよかったのに。きっと毎晩お側において愛して下さるわ」
 と、初瀬が、けだるそうに話しかけた。
 夜着の右肩がずり落ちて、丸い乳房がむき出しになっていた。
 唇はさっきまで続いてた愛撫の名残で、濡れていた。

「残念ながら、上皇様は女です。最初は皇女で、次は皇后になり、天皇の位に
つかれた後、今は退位して上皇とお呼びしている方。お年は52才でいらっしゃいます。
もう寝てもいい?」
「私だって一晩中寝てないのよ」
「あなたは彼氏といっしょだからいいでしょ。私はお勤めで、緊張しっぱなし
で肩が痛くなった。一昨日は午後から日が沈むまで、昨日は夕方から今朝まで。
人気者も楽じゃないのよ」
「柚子の輪切りを浮かべた白湯でも飲みなさいよ。彼といっしょに飲むつもり
だったけど、私の分をあげる」
「悪いわね」
 紀伊は白湯の入った新しい茶碗を受け取り、ふっと息を漏らした。
 しばらく半分眠ったように、茶碗から漂う湯気を見つめていたが、御簾の向こう
から遠慮がちに初瀬の恋人が声をかけてきたので、少し眠気が覚めた。
 悪いとわかっていても、好奇心が抑えられない口調だった。

「あの…私はある皇族にお仕えしている舎人《とねり》(警 護兵)です。当直明けなの
で、彼女に会いに来て…あなたの話を聞きました。
上皇がいつも語りを所望なさるとか。ここにはたくさんの女官がいるのに
何がよくて、あなたが特別なお気に入りなのですか。いったいどんな話をして、
上皇のお心をつかんだのですか」 
 初瀬は横から、軽い嫉妬をにじませて恋人の腕をつねった
「何いってるの。あなたは私に会いに来たんでしょ。そんな仕事上の話を
聞きたがるなんて、私はよっぽど退屈な相手なのね。だいたい紀伊にも迷惑じゃ
ないの。そろそろ帰ったら?」
「そんな…別に迷惑をかけるつもりじゃ…ごめんなさい。帰ります」
 紀伊は男が気の毒になった
「気にしないで。私の生まれは語り部の家。代々、いろいろな物語を人に聞か
せるのが家業なの。母も祖母も、同じように宮中に仕えてきた。機会があれば
二人にも語って聞かせてあげるわ」
 初瀬が面倒臭そうに会話を断ち切った。
「ありがとう、紀伊。でも彼の言ったことは気にしなくていいから。もう休んで」

 その時、紀伊の鼻先に夜明けの風が通り過ぎ、春の花の香りが頬を撫でた。
 身分の高い人だけが使う香料だった
 不思議に思ってふりむくと、一人の青年がおもしろそうに紀伊を見おろしていた。
「立ち聞きしてすまないが、その話、私にも聞かせてもらえないだろうか。
 私もまた上皇のお心を射止めたい一人なのだよ」

 彼の名は藤原武智麻呂。直広弐(従四位下)藤原不比等の息子である。
 昨年、持統上皇は十四才になった孫・軽皇子(文武帝)に位を譲っていた。
 同時に、不比等の長女が妃として宮中に上がった(註※地位は「夫人」)
 不比等は一刻も早く世継ぎが生まれるよう、密かに祈祷しているという。
 だから武智麻呂は、将来、天皇の外戚になるかもしれない人物だった。

 紀伊は何度か、武智麻呂が父・不比等といっしょに上皇の元に謁見に訪れ
ているのを見ていた。不比等は上皇との会話を他人に聞かれるのを嫌うので、
紀伊はかれらと口をきく間もなく、すれ違いのように退出していく。
 武智麻呂とは何度か目が合っていて、お互いの顔は見知っていた。
 今朝の武智麻呂は恋人を訪ねた帰り、長い渡り廊下を歩いているうちに、紀伊
たちの会話に足を止めたらしい。

 「あなたの話は実におもしろそうだ。といっても、こんな早い時間に恋人との
逢瀬の帰り道、聞く話でもないな。私はそこにいる舎人のように、好奇心丸出し
で自分の恋人のご機嫌を損ねるようなことはしない。あくまで、語り部のあなたの
内緒話をお聞きしたいだけです。都合のいい時間に出直しましょう」
「時間のムダかもしれませんよ」
「いえ、私が聞きたいのは世間話じゃない。あなたは天皇家とも蘇我家との繋が
りの強い語り部の家系だ。上皇様にもお話できない秘密もご存じのはずです。
黙っていますから、聞かせてもらえませんか?」
「出直して下さい。明日の晩はお休みをいただいています」
「わかりました。では明日の晩」

 約束通り、武智麻呂は日が沈んだ頃、香の匂いを漂わせながら行儀良く紀伊
の前に座っていた。その晩は初瀬が当直なので、隣の御簾の向こうには人影は
なく、遠くから言葉になっては届かない、誰かはわからない囁きが聞こえる
だけだった。

 二人の間にはお互いを意識している奇妙な緊張感と期待がはりつめていた。
 紀伊の胸にはいくつも不安の渦が浮かんでは消えた。
(こんな風に二人で会って、何かあると誤解されたらどうしよう。せっかく
出直してもらったのに、つまらない話だとがっかりされたらどうしよう。
いや、そんなはずがない。武智麻呂様を失望させるはずがない。
だって私が今、話して聞かせようとしているのは、私以外に知る者は少ない
とっておきの秘密なのだから…)

 紀伊には、祖母から語り継いだ秘密の物語があった。
 祖母は紀伊に「どうしても話したくなるような大切な相手にだけ語って聞か
せなさい。軽々しくよそに漏らしてはならないよ」と言っていた。
 祖母との約束を破るつもりはないけれど、何度も何度も物語を心の中で繰り
返すうちに、紀伊の意志を離れた生きた存在となって、体の中から出たいと
囁き続けてきた。武智麻呂が声をかけてきた今こそ、人に伝えるいい機会かも
しれない。
 紀伊は目の前にいるのが誰だろうと関係ないと自分に言い聞かせ、ずっと
胸のうちにしまっておいた物語を語り始めた。

            ~紀伊の語り~

 『乙巳《いっし》の変』はご存じですね。