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生とは薄氷を踏むようなもの

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『生とは薄氷を踏むようなもの』

夜明け前に目覚めた。
今朝は雨だ。風もなく、雨がしとしと降っている。リズミカルな雨音はまるで軽やかな音楽のようにも聞こえてくる。五月という季節のせいだろうか。

夜がゆっくりと明けていく。雨の音を聞きながら、静かに考えるのもいい。雨の音を聞きながら詩を書いた詩人が明治の時代にいた。彼は結核という不治の病にかかっていたにも関わらず、穏やかに生き、三十前にこの世を去った。どんなふうに死を迎い入れたのか。

 生というのは磐石なものではなく薄氷を踏むようなものだ。大人になって、それが分かった。子供の頃はそんなふうに思ったことなどなかった。生きていく中でそれを少しずつ学んだ。
 初めて、生の儚さを知ったのは十九のときのことだ。貧乏学生で新聞配達をしていた。
夜明け前に起きて新聞配達をした。新聞配達が終えようとしたときのことである。
夜が明け、辺りも明るくなっていた。
ひと気のない空き地の近くに歩いたとき、どこからか雨の音に混じって鳴き声のようなものが聞こえてきた。足を止めて、耳を澄ました。が、聞こえるのは篠つく雨が地を打つ音ばかり。気のせいかなと思って、再び歩むと、また微かな鳴き声が聞こえてきた。あたりをじっくり探すと、生まれたばかりの子猫が雨に打たれていた。誰かが捨てたのだろうか。それとも母猫が産み落としたのか。いずれにしろ、雨に打たれて震えていた。手を差し出すと寄ってきた。手の平に乗せた。実に小さな命である。それに温かい。なぜているうちに愛しさを感じた。子猫はか細い声で鳴き続けた。
アパート暮らしだったから、飼うのは無理だった。救ってあげたいと思っても救えない命だった。そのとき、自分の無力さを痛感した。
 雨に打たれないようにと木陰に置いた。そして足早に去ろうとしたら、子猫もついてきた。再び木陰に置いて走った。
 その日はとても悲しい気分だった。良い人に見つかり飼われれば、話は別だが、その可能性は殆どなかったであろう。昼間でも人があまり通らないところだったから。
 何とかしてあげれば良かったと、ずっと後悔した。今、あらためて考えると、それが、あの子猫の運命だった。そんな気がする。

 生も死もともに運命だ。運命というのはどうにもならない。
人間の考えでは想像できないようなを持つ神がこの世にはいる。神は、ぜんまいのような生きる時間を付与して、生き物をこの世に放り出す。そのぜんまいが延びきったところで生は止まる。短命に終わるのも運命、長生きするのも運命。みな生まれた時から定め。この頃はそんなふうに思う。

 父の死のときも、母の死のときも、何という不条理なことかと思った。地獄の炎に焼かれるかのような、病の苦しめられているのに、ただ見ているだけしかできないもどかしさ。どんなに苦しもうと、何もすることができない無念さ。それらは経験した者でしか分らない。

 東北の震災で、おばあちゃんと一緒に逃げた若い娘の話の記事が載っていた。坂道でおばちゃんが歩けなくなったとき、背負ってやろうとしたら、『お前、一人で行け』とかたくなに拒んだので、しかたなく一人で避難したという。その結果、何とか洪水から逃れることができたが、おばあちゃんは遠く離れたところで、泥まみれの溺死体として見つかったという。今、彼女は毎日のように悔やんでいるという。なぜ見捨ててしまったのかと。
 おばあちゃんの『一人で行け』という判断は正しかった。背負ってはとても逃げられなかった。そのとき、おばあちゃんには、自分の生を放棄する覚悟ができたのだ。同時に共倒れになるより、自分の血を引く孫の命が助かる方がいいと思ったのであろう。だが、若い娘がそれを理解するには若すぎる。歳をとり、いろんなことを経験して、やっと理解できるものではないだろうか。
 昨日までそこにいた人がいない悲しみ。手を差し伸べれば助けられたかもしれないのに、それが出来なかった無念さ。若い娘の心は深い霧のような悲しみに覆われている。ひょっとしたら、夜毎、悲しい夢をみて枕を濡らしているかもしれない。
 早く立ち直れるのを願わずはいられないが、どうやったら立ち直れるかは分からない。ただ、自分の経験からいえば、楽しかった時のことを素直に振り返ることができるようになったなら、立ち直ったといえるだろう。それには随分と長い時間がかかったが。

 傷ついた心の処方箋はどこにもない。ただ本人がその悲しい現実をありのまま受け入れるしかないのが、それは無理な話だろう。
 時間は何も解決しない。ただ過ぎ去るだけ。悲しみは消えるのではなく、心の奥底に時間をかけてゆっくりと沈むだけ。生きるということは、そういった悲しみを背負うことだ。震災で祖母をなくした若い娘の記事を読んであらためて、そう思わざるをえなかった。歳を重ねるということはその分だけ、おのれの無力さを知り、そして、その悲しみが増えていくのだ。

 枕草子の中に『ただ、過ぎに過ぎゆくもの、帆をかけたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬 』というのがある。好きなフレーズの一つだ。舟も、命も、季節も、みな、ただ過ぎて行く。過ぎることを抗することはできない。受け入れるしかない。その先に死が待っていようと。
遠い昔、早死は珍しくなく、生と死は隣り合わせで、薄氷を踏むような思いで、日々生きていた。