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私についての小さな説

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・平成二十三年皐月の終わりに思いし事

 少しでも気が重たくなると考えが鬱々としてくる。これは別にワタクシに限ったことではないであろう。嫌なことがあれば気が滅入るし、喜ばしいことがあれば気が晴れる。何ということもないのだ。誰だってそうだ。ワタクシが他人と違うところなど、きっとない。ワタクシの出来ることは他の人でも事足りるし、ワタクシが居ても居なくても世間は変わらない。確かに世の中にはその人でなければならないことがあり、その人であるから成せることもある。それは所謂、有名人であったり人生の勝者であったりする。「オンリーワン」だと歌われても、鬱々としたワタクシの心には届かない。「そうですね」と笑顔で相槌を打つ裏側で、「それはワタクシには当てはまらない」と思っているからだ。
 少し訂正しよう。ワタクシは先に「他人と違うところなどない」と書いた。だが、しかしそう思う一方で世の中すべての常識と普通はワタクシに当てはまらないと思っている。「普通」も「常識」も語り手にとってのことであるから、いつだってワタクシの価値観とは一致しないのだ。それだけではない。ワタクシは恐らくあらゆる興味が他人よりも薄いので、己のことを話されたとしてもそれが他人事に聞こえてしまうのだ。おかしな話だとは思う。それでもワタクシは二十歳を超えた今をもって尚、己のことも他人のこと同様に興味がないのだ。その己に興味がないワタクシがこのような私小説紛いを書いているというのは、些か矛盾しているような気もする。本当に、矛盾の多い人間であると思う。
 この鬱々とした感情の気晴らし文章をしたためる前に、ワタクシという一人称について述べておきたい。記すほどの理由でもないのだが備忘録のようなものである。ワタクシは「私」と書いてしまえば一文字で済み、実に簡潔である。見た目も良いしわざわざ片仮名で書く人はそんなにいない気がする。ただ「私」と書くと「ワタクシ」なのか「ワタシ」なのか分からなくなってしまうので、「ワタクシ」と是が非でも読ませたいがために「ワタクシ」としたのだ。ワタクシは、と言うと非常に気取って聞こえる。丁寧な物言いをするときに用いられるから、多くの人は「ワタクシ」は丁寧な言葉だと感じるのであろうが。ワタクシにとって「ワタクシ」という言葉はとても高飛車な雰囲気がある。確かに丁寧なのだろうが、いかにも「品のある人間です」と言っているようで実は「ワタクシ」という一人称は嫌いなのだ。なのでその嫌いな一人称をワタクシは此処で用いることにした。
 ワタクシは己に興味が薄いばかりではない。ワタクシほど嫌いな人間は他にいない。その忌々しいワタクシの事を綴るのであるから、一人称の中で最も気にくわない「ワタクシ」を使うことにした。

 さて、本題に入ろうかと思う。まあ本題などと仰々しく言えるような内容でないことはお察しの通りだ。よく言って「気晴らし」、本当のところは「愚痴」である。今日は慣れないことをして疲れたのだ。ただそれだけでこんな事をしているのだから何とも脆い人間に育ったものだと、少し思う。今までならこの鬱とした気を胸の内に留めたままでも平然として過ごせていた。しかしどうやら二十年そこそこの分が溜まったところでワタクシの許容量は度が超えてしまったようなのだ。結果、この有様である。
 今日起きたことを記す気はないが、代わりに今日思ったことを記す。それはそろそろ溜め込むことが不可能であると感じたことだ。そのためのコレなのであるが、この下らない文以外に捌け口がなかったのかと言うと、なかったのである。人間として誠に残念なことだ。もともと人との交流が多いわけでもなく、親類に重い話をする気もせず、この電子網上の知り合いもいるが話す気にはなれない。どうして己の気晴らしのために人の気までを鬱々とさせることが出来よう。ワタクシにそんなことは出来ない。少なくとも故意には。しかしコレを書いている今、既に電子網上に乗せることだけは決めているのだ。何とまあ矛盾した考えなのか。要するに、ワタクシの上っ面を知っている人間には内側を曝せないから、無差別に偶々開いてしまった人間を犠牲にしようとしているのだ。コレを少しでも読んでしまった方には本当に申し訳ないと思う。しかし同時に、心から御礼を言わせて頂きたい。ワタクシはいい加減、内側に鬱を溜め込むのに疲れたのだ。「ワタクシの内面である」と声を大にして人に伝えることは、小心者のワタクシには不可能であるが、こうして人目に触れる可能性だけを残して思いを存在させられる場所があって本当に良かったと思う。だから、コレを見てしまった貴方にはワタクシの鬱々とした気持ちが移って最悪の気分を味あわせることになるであろうが、ワタクシの心はその可能性で少し救われるのである。
 本当に、本当にありがとうございます。

 今日は久々に人の多いところに入った。だからこれ程にも疲れを感じているのかもしれない。人混みと言うのは非常に窮屈である。ワタクシが今日体験した人混みはだだっ広い部屋に、疎らに三十人ばかり集まっただけであるから人混みに値しないであろうが、それでもワタクシに取っては人混みであった。人が多く、かつ静かであるということは気疲れを感じさせる。例えば縁日やらイベントやらで、人が多くとも騒々しければ構わないのだ。雑踏とともに他人は忙しなく行き交い、観察する暇も思考する暇もない。けれども人がいて、静かで、やることが特になければ更に最悪で。ワタクシのつまらぬ思考回路が動き出すとこうして鬱々としたところへ落ちていき、疲労をもたらすのである。
 人をよく見るということは、一方では良いことなのかもしれない。だがそれは、真っ当な人間が他人を観察した場合なのでワタクシは例に漏れるのである。何が「真っ当」であるのかということは難しい問題であるが、とりあえず他人を観察しても鬱々とした気持ちにならない人間は「真っ当」であるとしておく。そして「真っ当」でないワタクシは、他人を見て鬱々とするのだ。人が大勢いて、静かで、やることがないからと言って他人を観察し、勝手に鬱々とする。心底迷惑な行為なのだが、残念なことにワタクシの思考回路は己で停止させることが出来ないので、ただただ落ちていくだけなのである。
作品名:私についての小さな説 作家名:清 浄