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こがみ ももか
こがみ ももか
novelistID. 2182
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ふたりの世界

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靴音ががらんどうの暗いフロアに響く。市川寿晶は腕時計を横目に確認して舌打ちをした。残業をした日は自分を殴ってやりたくなる。どこかに手際のよくない瞬間があった証拠なのだ。とんだ時間の無駄づかいである。人生に与えられた時間はそう多くはないというのに、こんな深夜に近い時刻にロビーを歩いているなんて許しがたい。
自然と歩き方が粗野になる。かつんかつん、睡眠不足もあいまって足音を耳にするとますます気が立ってきた。第一、ろくに電気もついていない建物内を通るなんて心外にもほどがある。
眉を寄せるときつい印象になって怖いと常々言われ、あまりそういう表情をしないように心がけてはいるが一人のときまでそう自制はしていられない。眦のつり上がった瞳も、普段はかっこいいなんて褒めてくる相手でも寿晶がいざ機嫌の悪い素振りを見せるとすぐさま逃げていくのだ。
「あ……お疲れさまです」
入り口付近ですれ違いざま、しっかりした身体つきの警備員が遠慮がちに声をかけてきた。返す気にもなれず素通りし、出口に差しかかる。かろうじて終電には間に合いそうだが、それでも瀬戸際だ。どうでもいい相手に構っている暇はない。
「――あのっ! 定期落としましたよ!」
しんとした空間という以上にやけにまっすぐに通る、芯のある声だった。なんとなく聞き覚えのある声に首を傾ぐ。男はすっと寿晶を追い抜き、正面に立って定期入れを手渡してきた。
「ああ、すまない……あ!」
受け取って礼を言うだけでさっさと帰ろうとしていた矢先、風貌が視界の端に入ってあわてて顔を上げた。どおりで声に覚えがあるはずである。改めて向き直った男は、見覚えがあるどころではなかった。
「はい?」
「おまえ! 町田すばる!」
せっかく拾ってもらった定期を取り落とし、寿晶は男の胸倉を掴んでぐらぐら揺すぶった。百八十センチ前後といったところだろうか、寿晶よりも上背のあるにもかかわらず彼は一切抵抗を見せず、されれるがままになっている。
たれ目の黒い瞳とやんわりした唇の形に反して鼻筋がきりりと通り、つり眉のためか精悍な印象を受ける面立ちである。しかしどことなく気弱そうな雰囲気を漂わせている彼は、舞台では一転別人のように目を引いた。
「すばる……なんで俺の芸名知って」
「おまえこそなんで芸名まであって警備員なんかしてるんだ! 劇団員じゃないのか? 先月の舞台!」
目を白黒させる町田が口を挟む隙を与えない勢いでまくし立て、容赦なく彼を揺すった。先週無理矢理つき合わされて見に行った舞台に町田が出演していて、準主役が役不足なくらい舞台映えする容姿が目に焼きついた。以来彼を探して通っているものの、一向に出演がない。団員に訊いてもわからないという。
その男がまさかこんな身近にいるとは、徒労にもほどがある。
「わけっ! 理由、言いますから……は、放して、ください……」
「ああ、これじゃ落ち着いて話せないな。すまなかった」
弱々しく肩を叩かれ、我に返り町田を解放してやった。喉元をさすり、ほっと息をつく間抜けな姿はあの舞台の男と同一人物とは思えなかったが、どう見ても本人だった。町田実尋。胸のネームプレートに書かれた本名のほうがよほどしっくりくる。すばる、が似合っているのは顔だけだ。
もう一度定期を拾い寿晶に寄越しながら、町田は申し訳なさそうな笑みを浮かべた。人がいいと、彼は何度言われてきただろう。
「あの、俺あのとき代役で……熱出した後輩の変わりでした」
「は? 代役だと……」
「ほかに台詞覚えてる人がいなかったんです」
ラッキーでした、と決して本心ではないトーンでつぶやきながらも、町田の表情は穏やかだった。まるで笑みが貼りついたようで、正確な感情が読み取りづらい。気に喰わない。頭に血でも上ったのがくらくらした。
かっと腹に滾った苛立ちをうまく発散できず、寿晶は町田を睨みつけた。
「代役、ならそう、と……書け」
「どこかに書いてあったはずなんですけど……え? あ、あの!」
抱き留められた感触。耳元で低くてやわらかな声が誰かを心配している声がする。そういえばあの日の舞台も、彼は主役の男を深慮する役を当てられていた。


硬いベッドも布団も嫌いだった。そんな場所で寝るくらいなら床に羽毛布団にでも包まって転がったほうがよっぽどいい。
学校の保健室や病院の類のお世話にならないよう、ほんの小さなころから摂生づくめだったのだ。嫌いな食べものでも身体にいいと教えられれば目をつむって食べたし、生活リズムは親があきれるほど規則正しくを心がける子どもだった。三十五になった今でも、基本的には早寝早起きの習慣を維持している。
枕どころか寝床が合わないと我慢のがの字も出てこない。
「んっ……誰だ……俺をこんな、硬いベッドに寝かせたのは」
「市川さん! 気づきましたか……よかった」
ベッドは叩くと硬くて安っぽい音がした。寿晶を覗き込んできた町田は、顔じゅうに安堵を浮かべて肩まわりを撫でてくれる。大きな手が幼い子をあやすのに似た仕草に凪いで、振り払う気にはなれない。何度かネクタイを緩められ、いくつかボタンの開いた襟元に長い小指が引っかかる。
「ここはどこだ」
「二階の仮眠室ですよ。市川さん、倒れてしまわれて……少し熱っぽいみたいです」
「名前」
「定期を見ました。すみません」
意識を失うということは、相当疲れた顔をしているに違いない。見られたくなくて、両手で顔を覆った。寿晶らしくもなく忙しさにかまけてほとんど眠っていなかったし、土日は劇場に通って回った。無理もない。
「おい」
「はい……?」
起き上がろうにも、すっかり緊張の糸が途切れてしまって叶わない。しまりのない町田を眺めているうちに居心地の悪いところに寝ている苛立ちがぶり返してきて、寿晶は仰向けのまま一気に言い募った。
「ここ一週間俺は最高に忙しかったのにおまえの芝居見たさに休みを削って下北沢をぐるぐると回ったんだ。検索しても出てこないしな。しかもそれが自分の勤め先の警備員をしていてあの日は代役だったなんてふざけてるだろ俺の休みを返せ」
「……すみません」
「いや、今のは八つ当たりだから謝らなくていい。聞き流してくれ」
「はぁ……」
ころころ言葉の変わる寿晶に当惑しているらしい町田はとくに怒りも見せず、様子を窺ってくる。ただ、また舞台で彼を観たいだけだった。そうきちんと伝えられない自分にも腹が立つ。
「すまなかった」
いえ、と控えめに答えた町田の声はかすかにふるえているようだった。なぜ言い返してこないのか。指の隙間から町田を覗き見ると、口許がなめらかな曲線を描いている。本当に笑みが地顔になっているのかもしれない。
代役の話をしたとき、町田は不本意そうだった。あの一度が、なぜ次にはつながらなかったのだろう。
「町田すばる」
「え? あ、あの、……はい」
町田の容貌は近くで見れば見るほど端整で、とても代役で一度きりの出演の俳優には思えなかった。
「今度はいつ出るんだ」
「決まってません」
「予想もできないのか、自分の将来だぞ」
「全然売れないんです。本業もこっちのバイトみたいになってきてて、役もあと一歩のところで持っていかれちゃうし」
「それはおまえが自信なさそうにするからだ」
作品名:ふたりの世界 作家名:こがみ ももか